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私の夫はのび太さん

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本記事の本文はWEB天狼院書店に掲載されたものと同一です。

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「いい旦那さんですね、朝からずっとそばにいてくれて」

平成最後の日、私は日帰り入院で手術を受けた。脈が早くなっている私の緊張をほぐそうとしてくれたのだろう、看護師さんがゆっくりと声をかけてくれた。あの日からもう少しで丸5年だ。

 

看護師さんが言ってくれたように、夫はいい人だ。時たま、そんなハートの持ち主である夫に感謝する。でもすぐに忘れて、私は文句ばかり言う。何事も決めるのも動き出すのも遅い。人からの依頼を断らないから優先順位がゴチャゴチャになる。資格を取ると意気込んでいたので勉強のコツを伝えても、1日1ページしか活字を読み進められず撃沈する。「建生日おめでとう」と書かれたバースデーカードを渡され、「漢字に自信がないならスマホで変換してから書けば?」と伝えると、どこが間違っているか分からないと言う。噴水のように夫の短所が湧き出てくる。

 

でも、私はこの人と付き合い、結婚し、一緒に暮らしている。「なぜ結婚したの?」と聞かれても、「優しいから」としか返せない。ただ、その優しさがデカすぎる。他人事でも共に喜び共に悲しむ、まるでドラえもんの『のび太さん』なのだ。

純粋無垢で優しい夫への感謝を、もっと抱いておきたい。だから、平成から令和になったあの頃の記憶を、文字にして思い出し直そう。

 

 

 

改元初日の令和元年5月1日、テレビは祝賀ムードだった。

「令和ベビーです!」「お母さん、おめでとうございます!」

テレビが令和ベビー令和ベビーと言っていた。チャンネルを変えてもまた、産婦人科が映る。令和初日に赤ちゃんが産まれたことへの感想とか、名前をどうするかとか、あの日の私には毒にしか思えない音声や映像を浴びた。

「何が新時代の希望だ……」

私は平成最後の日に「稽留流産」で日帰り手術を受けた。流産したが全てが体外に出てはいなかったので、子宮内に残っているものを取り出す手術だ。手術後にタクシーで帰宅し、気づけば寝ている間に令和に突入していた。寝たままテレビを観て、身体は安静に、心はどす黒く過ごしていた。

 

「私、親になるのかも!」と初めて思ってから間もなくの流産、妊娠7週だった。平成のクライマックスはジェットコースターのようだった。

 

平成31年4月28日。休日出勤の当番だった私は、1人で仕事をしていた。作業中にドロッと出血し病院へ電話したら、「すぐに来て」と言われた。上司に電話して代わりに出勤する人を探してもらい、午前中は寝ているはずの夫に電話したら繋がったので病院で合流することにした。仕事場から病院まで1時間運転し、夫と合流し、急患窓口へ到着したら私が乗るための車椅子が準備されていた。車椅子に座って初めて、私は事態の深刻さを冷静に理解した。

その日は当直医に診てもらい、4月29日に主治医に診てもらった。夜にまた出血し、その塊を見て『あ、赤ちゃん居なくなっちゃった……』と思った。その塊を、夜中1時半に帰宅した夫と一緒に見た。夫婦ともに寝付けないまま平成最後の朝を迎え、一緒に病院へ行き、夫は出勤寸前まで近くにいてくれた。

手術前の準備が進む中、折り合いの悪い私の親が急に病室へ現れた。看護師さんに「お願いだから親を帰らせてください」と頼んだ。看護師さんがバタつくなか、「何故こんな時だけあの人は親らしい顔をするの? いや、私がそんな風に親のことを思っているから、親になれないの?」と夫に言い散らかした、夫は、私は悪くないと言っていたような気がする。

 

脈が早くなっていた私に看護師さんが「いい旦那さんですね」と言ってくれて、少し落ち着いた。手術室に行くところで夫と別れ、麻酔が切れると夫は出勤していた。看護師さんが「旦那さん、手術中ずっと廊下でお祈りしていたよ」と教えてくれた。

 

令和に突入し、令和ベビーは何も悪くないのに私が勝手にイライラしていると、夫は何も言わずにテレビを消した。

 

5月4日。夫婦で近所の海岸を一緒に歩き、2人並んだ影の写真を撮った。それから藤棚の名所として有名なお寺へ行った。少しずつ日常に戻っていった。

 

流産のことを人に話すと、経験者を含め「時が解決する」、「産まれられないと赤ちゃんが分かっていたから、お母さんの負担が大きくなる前に出てくれた」、「流産は珍しくない、お母さんは悪くない」などと話してくれた。今となればその意味が分かるが、当時は、自分から話しておきながら、どの言葉も慰めにはならなかった。

 

しばらく経ってから、夫が平成最後の日のことを話し出した。

手術室から廊下に聞こえてきた音が、掃除機の吸引音のように思えて残酷に感じたこと。

手術前夜に私の体から出た塊があの子だったのだろう。袋に入れて一晩冷蔵庫で保管し、手術前の問診時にお医者さんへ渡したけど、検査したあと、あの子はどこに行ったのだろうかと考えるということ。

 

「あぁ、この人はあの塊を『あの子』と呼んでくれる」

あの子はひと時でもこの世に存在した。それが、当時の私が一番欲しい言葉だった。

 

そして、令和最初の私の誕生日。夫からのプレゼントは、ジュウシマツという種の白い小鳥だった。流産で淋しい気持ちになったから育てよう、という意図だったらしい。「生き物を相談もなしにお迎えするなんて!」と、最初はワーワー文句を言った。でも、夫の目論見通りだった。私たちの帰りを待っている守るべき存在がいるというのは、心が元気になるのにとても助けになった。ジュウシマツは外見で性別を判断できないのだが、女の子な気がして『小梅』と名付けた。数年後に女の子だと分かった。彼女は今も、ブランコに乗ったり鈴をくちばしでつついて鳴らしたりしながら元気に過ごしている。

 

 

夫は頼りないところが沢山あるけれど、人の幸せを共に喜び人の不幸を共に悲しむことができる。

私のペンネームは、しずかちゃんではなく小梅。小梅を名乗ることで、プレゼントに小鳥を選ぶ純粋無垢で優しいハートの持ち主の夫への感謝を、忘れずに抱いていられるかもしれない。

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