問い掛け-6<独り歩き>

<独り歩き>

 一九六三年。養父は職安へ行き面接の結果、日産の自動車部品工場に転職することが決 まった。

 そこは神奈川県厚木市。引っ越し先は、町外れの片田舎。

 タクシーから降りて、地図を頼りに転居先の農家を探して歩く親子三人。

 山と竹林に囲まれた基葺き農家が点在する真冬の薄暮。

 小さな牧場も見えるのどかな風景。養母の手をわし掴みにし砂利道を不安定な足取りでセカセカと歩く私。徐々に視界が薄暗くなり、寒さに身を縮こませ手をポケットに入れた。勾配の脇道に入ると、右手に大きなコンクリート升の貯水溝が目に飛び込んできた。

 思わず足がすくみ立ち止まった。躰が堅くなる。水面に反射する裸電球の外灯がキラキラと輝き、波校で更に大きくなる。初めて見る不思議な光景に眼を奪われた。

宇部の山奥では見たことのない外灯。そして、なによりも、吸い込まれるような庭の見えない貯水溝が怖くてたまらない。それからの私は貯水溝の前を横切るとき、必ず離れて歩く習慣が身に付き、又、風呂やプールまで大嫌いになってしまった。(因みに水を克服できたのは小学四年の夏だった。)

 転居先は、知人に紹介された農家の納屋の二階だった。

 環境が一変し、隣り近所に住宅が在るのも幸いしたのか、私の日々は、まるで冒険のような有様で、人見知りもせず、環境の変化に気おくれすることもなく、何んにでも興味を抱いた。

 どういう訳か、家で凝っとしておれない性分と、養母に思われてしまった私は、養母の制止を振り切り、毎日、家を飛び出す始末。

 数日前、愛犬のコマを宇部に置いて来てからの私は胸の裡で、なぜ、どうしての問い掛けと共に 寂しさと混乱の中で、コマを探そうとしたのかも知れない。

 言葉にならない愛別離苦の切なさと不満。三歳にして三度目の引っ越しとなる環境の一変がそうさせたのだろうか。 もしかすると、これが最初の問い掛けだったのか、否、突き詰めると母への渇愛から既に問い掛けは始まっていたのだ。

 私を見守るように俯瞰する養母はそのことに気付いていて当然だった。

 一歩、家を飛び出すと昼過ぎまで帰って来ない私。往く先々の家で歓待を受け、当然のように昼食までもてなされることもあり、「一体、この子はどこの家の子だろうね。」と、周りの大人たちが心配するころになって、やっと家に帰るのを思い出すのんきな子。

 否、本心のところでは、ここにも母とコマはいなかったと幼い胸の裡で諦めるしかない、長い 一日だったのかも知れない。

遅くまで足を延ばし、幾度か迷子になり、養母を困らせたことも(※破れていて読み取れず)独り歩きは止まらなかった。

 私の独り歩きが、儚く徒労の幻想で終わろうとも、外界との触れ合いに因り、徐々に心の襞が癒されていくのだった。なぜなら、どの家にも歓待され、愛情一杯にもてなされる。 そんな空間と雰囲気に浸っていられたから。

 当時の大人は、どこの子も一緒に育て、分け隔てなく愛情を持って迎へ容れ一体になれ た。心が豊かな人が多く、穢れのない幼児を見て、だれもが遊んでくれた。

 無垢ゆえに、自然と触れ合う無私の愛。自他の区別なく、こころ和むまま癒されていた かった。誰もが備え持つ無償の愛を感応できた共有の笑顔。倖せな空間と豊かなこころが、

当時は、そこここにあったのだ。そして誰も拒むことがなかった。

 越して来てからの遊び相手がコマから大家の娘、近所の子供たち、そして不特定多数の大人たちへと様変わりし、行動範囲も拡がり、外に意識が向けられる分、世間の社会通念を、自然に習得できたのではないだろうか。独り歩きが、そんな最適な情操教育に成り得た成果だと私は勝手に思い込んでいる。そういえば独り歩きが始まる前、自立心を養う為なのか、唯一の日課 であった、朝一番のお遣いを憶い出した。

 毎朝、自分の飲むミルクを近くの牧場まで買いに往くことだった。

 小さな鍋を両手に持ち、百メートル足らずの道をこぼさぬよう持ち帰る。只、それだけのことだが、三歳児の私にとって、それは長い道程だった。帰りが遅いといっては、養父母が 二階の窓から頭を出して、

「一明よーい。早よう帰らんかねーい。」

と、叫ばれることも再三だった。

 牧場の牛を遠くから眺めたり、鍋を足下に置いて山羊の尻をつついて逃げ帰り、養母か ら、「鋼はどうしたんじゃね。」と言われ、再び取りに戻る始末。

 近所の犬や猫と遊んだり、ときには道端で用を足すなどして、朝食が待っているのをすっ かり忘れてしまう、そんなのんきでお茶目な子供だった。余談だが、この頃ラジオや有線か ら流れる歌を、いつ覚えたのかワンフレーズのみ、まるで毀れたレコード盤のように繰り返し歌っていた。

 養父母の前で小さな台に乗り、ワンフレーズ歌し終わるとペコンと頭を下げ、二人に拍手をせがんだ。そして満足すると台から降り、養母の肩をトントンと叩き、もう一回歌うから聴いてくれというゼスチャーを示した。 養父母は、ならばと改まって、再び私の歌を聴いてくれる。

 ほんの数十秒だった。そして拍手をされ満足し、再び養母の肩を叩きに来る。

 この繰り返しを少なくとも五回は付き合わされたんじゃぞ、と或る日、養母は遠くを眺めつつ、三日月眼の笑顔で、

「あの頃の一明は本当に可愛いかったけどねえ。」

と季節替えのとき、タンスの前で、その頃の幼児服を手に取って追憶を楽しんでいた養母の顔が浮かんで来る。

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続く。

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