放物線に見る夢

努力は報われないことが多いということを、人はどこかでわかっている。
正しいと思って行動していても、成果が上がるとは限らない。
向かっていく方向は、正しいと思っていても、それを認めてもらえるとは限らない。
人それぞれ正しいという価値観は違う。
力のあるものがその正しさを決める。
集まれば、人数がそれを決める。
そこで敗れれば、努力は苦労にしかならない。

苦労を好んでする人はいない。
「若い時の苦労は勝ってでもしろ!」
そう言えるのは、数少ない努力が報われた人たち。
無名の人たちの努力は、多くの成功の足元に転がっているだけだ。

しかしどこかで、人は努力が報われて欲しいと思っている。
挑まなかったこと、途中であきらめたこと、誰もが大なり小なり持っている願いを叶える姿を見たいと思っている。

グラウンドに立つ者たちは、選ばれた人たちだ。
そして輝きの中に身を置いたことがある人たちだ。
たとえその努力を知らなくても、苦労を見ていなくても、光の中にあった人が、再び戻ってくるには、どれだけのことを乗り越えてきたかを想像は出来る。

だから願う。
その放物線が歓喜の輪の中に飛び込むことを。
放った選手が願うのと同様に、「届け」と声を出し、「行け」と指をさす。
グラウンドには夢がある。
それは華々しいものだけではない。
背景には、努力と苦労が観客には見えているのだ。
だから美しい。
だから感動する。
もっとも嬉しいのは、報われた者だ。
しかしその一部を共有出来るのは幸せなこと。

努力は報われないことがほとんどだと知っている。
苦労を乗り越えるのは、厳しいことだとわかっている。
だから報われた者たちを観に、球場へ足を運ぶのだ。
いつか自分の努力が、苦労が報われると、もう一度信じられるようになるために。

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