生暖かく薄暗い/「ブッダという男」:神話のブッダ・神話のジェファーソン/「日本人は無宗教」とスピリチュアルと「科学コミュニケーション論」と福島差別

12月16日(土)雨時々曇り

今朝は未明からずっと雨が降っていたらしく、朝職場に行ったら玄関口のあれと思うようなところが濡れていてかなり降ったのだなと思った。起きた時にはもう少し寝たいなという感じはあったのだが、トイレに立って時計を見たらもう6時になるところで、思ったより寝たという感じ。気温を見たら13度もあり、少し驚いたが、思ったよりちゃんと寝られたのは暖かかったせいだなと思う。今東京の気温を見たらこちらより低かったので、こちらの方が南岸低気圧の影響を強く受けて暖かい空気が入ってきたのだろうなあと思った。冬の入口、なかなか気候は安定しない。生暖かいが、雨が降っているのでうす暗い。変な感じである。

昨日は年賀状作業を進めるつもりだったのだけど今ひとつ集中できず、古いパソコンの筆まめがなぜか動かなくなったので新しいパソコンにデータを移して印刷はできるようにしたのだけど、気持ちがまだ年賀状になっていなかったなと思い、今日はなるべく終わらせようと思った。来週は来週で別の仕事があるので、今週のうちに終わらせたいと思う。

昨日は午前中に母を病院に連れていき、割合早めに終わりはしたのだが、その後少し買い物をして母を施設に送り、ツタヤへ行って「ダンジョン飯」の13巻と14巻を買った。来年はアニメが始まるという話だったが、マンガの連載の方はこれで完結ということのようだ。まだ読んでないが、「このマンガがすごい!2016」で知って読むようになったこの作品が完結ということは、まる8年間読んでいたということになるわけだから、本当に最近のマンガ作品は息の長いものが多いなと思う。


「ブッダという男」、第9章の「六師外道とブッダ」の「決定論」のところまで読んだ。第7章の終わりに「歴史のブッダではなく神話のブッダが必要とされてきた」とあり、全くその通りだと思うけれども、つまりこれは例えば近代史で言えば「歴史の「坂本龍馬」でなく司馬遼太郎の「坂本竜馬」が必要とされた」ということになる。坂本龍馬という人物の史実上の活躍については近年研究が進んできているけれども、幕末に天真爛漫・自由闊達なこういう人間がいた、というのは高度成長が終わりつつありなんとなく希望が見えなくなっていた時代に、こういう生き方もありで、それが新しい時代を拓くのだ、という思いを強くさせたに違いないと思う。

また他の方面で行っても、聖徳太子の「実像」などについても同じことが言える。人々が必要としてきたのは近年の研究の実像とされる(それは怪しいところがあるように私は思うが)厩戸王ではなく、伝承も含んだ聖徳太子であると思うし、聖徳太子のそうしたイメージこそが日本という国家の起源、すなわち日本という国のあり方のコンセンサスを国民に広く与えたもので、それを否定的に扱うことはある種の、端的に言えば左翼的・反日本的なイデオロギーの発現でもあるということになる。

これはアメリカで言えば「建国の英雄としてのジェファーソン」が重要なのであって、奴隷農場主としての彼が重要ではない。BLM運動の結果彼の銅像を撤去するなどということが起こっているが、これはアメリカの国民統合にとってかなりのダメージになることであり、暴挙であると思う。

第8章は仏教の成立の起源について。これは「初期仏教」を読んだ時に気になったのだが、「ブッダという男」でもインド侵入前のアーリア人は「遊牧民族」とされているが、最近の遊牧の定義は「遊牧とは、自然の草と水を求めて家畜群を伴って各地に移動してゆく放牧の方法」であり、アーリア人がそういう意味での遊牧民であったのかは疑問だという気はする。調べた限りでは牧畜と狩猟、時には農業という状況であったと考えられているので、それは遊牧民と言うのはどうだろうと思う。

定義で言えば遊牧は「紀元前 9 世紀∼10 世紀に、ユーラシア大陸及びアフリカの草原地帯で開発された」とされていて、紀元前15世紀のインド侵入前のアーリア人にそれを適用するのも問題はあるだろうと思う。もちろん、これは初期仏教、ブッダという人間の思想を考える上ではあまり関係ないことではあるが、おそらく仏教研究者のその辺の認識がやや最新研究から離れているのではないかという感想は持った。

またこれは本書自体の記述ではない(と思う)が、ブッダの教えとされているものはブッダ自身というより彼の高弟、語り手たちの教えではないか、という指摘はまあそういう可能性は結構あるなと思った。ブッダ自身は経典を残しているわけではないし、ソクラテスもイエスも自分で経典は残してない。孔子も五経は編集したことになってるけど言行録である「論語」を書いたわけではない。「クルワーン(コーラン)」もムハンマドへの啓示を記憶したり書記が書いたりしたものを正統カリフの時代に編纂したものだそうで、ムハンマドが書いたものでは少なくともない。彼は文盲だったそうである。

今は六師外道についての仏教からの評価を読んでいるが、その評価によって逆に仏教の思想がわかる、というのはその通りだなと思った。


科学や技術の進歩に対する不安、というものはあると思う。自分が把握できない範囲にどんどん進歩していくことの怖さみたいなものもあるけれども、それが今まで自分が安住していた従来の世界の常識のようなものを破壊していく怖さ、みたいなものとしてあるとは思う。伝統的な身体的な感覚と科学ができることのずれ。これは人間としては本来あるものだけれども、それはつまりは慣れによって克服していく、という部分が大きい。あるいは、「できるけれどもやらない」という形で後回しにされることもある。実際にそうなっているものとしては2度だけ使われた核兵器がある。これを実戦で使うことの危険は広範囲に共有されているため、抑止力として所有する、という形で防衛の切り札を望む国の間で浸透はしているが、今のところ使用されてはいない。遺伝子工学なども、宗教との折り合いをつけながら進められていると思う。

また、それとは別に、科学の進歩がある思想にとって都合が悪いということから科学に注文をつける、という方向もある。それがSTS=科学技術社会論とか科学コミュニケーションとか呼ばれるものだろう。現代の世界の建前上の共有思想は「民主主義」なので、民主的な方向性に反する科学技術の発展に一定の歯止めがかけられるのは当然だろうと思う。

しかしそれとは別に、ある種のラジカルな思想、例えば環境主義などにおいて「市民の漠たる不安」みたいなものから必要な技術を使えないようにしようという傾向があり、これはかなり問題だと思う。我が国においてのその代表は原子力発電だろう。

原子力の利用はその莫大なエネルギーや人体への悪影響など様々な難しい側面があるのは踏まえなければならないものだが、ある意味「人間が神の領域に手を突っ込んでいいのか」ということにおいては共感できるところもある。しかし、よくわからない人たちの漠然とした不安を当事者に押し付けるだけのものになっているよう場合が少なくないように思う。

日本人が「無宗教」と言いながら神社に参拝したりクリスマスを祝ったりするのは神道が明治国家において「宗教ではない」とされたことの後遺症みたいなもので、なんとなく神様はいるとか馬鹿にすると罰が当たるという感覚はまだかなりあるのではないかと思う。でもハードな「宗教」はイヤなのでソフトな「スピリチュアル」的なものにはまる人が多いのではないかという気がする。

これはこれで「信じる者は救われる」とか「鰯の頭も信心から」みたいに本人が幸せならいい、というものだとは思うのだが、放射能を「何かの穢れ」的な感覚でとらえたりやみくもに怖がったり福島を穢土扱いしたりする「左翼的スピリチュアル」の感覚とも通じるものがあるのではないかという気が最近している。

科学で語られない感覚の部分というのは大事だと思うのだけど、広島長崎関連の教育もあり、放射能を必要以上に恐れる感覚が新たな差別につながっている面もあるのではないかと思う。

そうした実は差別的な感覚が、「科学コミュニケーション論」のような科学的な装いを持って差別の実行に使われている場面があるように思えることが多く、その辺りは自身の議論を相対化して評価することをもっとしていくべきであるように思える。世界的に見れば気候変動を抑止するために原発の使用を推進する方向に舵が切られつつあり、その辺りもまた考慮に入れていくべきだろうと思う。

こうした感覚が戦後教育がもたらした因習への囚われになっていないかということもまた、科学的に見ていくべきことだろう。

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