”人を見る”才能

僕たちは人間だ.これは生物学的でもあるし,精神的でも有る.
人間は人間とは何かを問い続けてきた.形になって残っている著名な例はソクラテスらの哲学者だ.

人間は生きるために生きている.
これは生物学的理由だ.
けれど現代社会あるいは人類史上において一定数の者たちはさらなる意味を見出してきた.

それは運命であるかもしれないし,使命や義務,はたまた娯楽かもしれない.
しかし,そんな風に生きる理由というものを何千何万何億という人達が見出したとしても,全ての人にとっての最適解とはならない.
このことは証明できるかもしれないしできないかもしれない.

人は生きるために他者の命を刈り取っている.
時には同類のそれすらも蹴落とすこともある.

けれど,できるならばやりたくない,というのが大体の人の本心だろう.
理想というのは人が苦しみから目を背けるための道具だ.
ただ単に生きるのは苦行である.そこに意味を見出して幸福へと昇華させるか,理想を追い求めることで一時的に耐えられるようにするかの二者択一が存在し続けている.

自身の欲が周りを傷つけず奪いもしないで満たせれるのなら,それはとても素晴らしい世界だろう.

けれど,自分の幸福を選べば他者の不幸になることもあるし,応援者とともに挫折することもあるだろう.
その挫折や苦しみを美しさとする人たちは,不幸を求めるかもしれない.

だけどそれは,苦しさを知る者が独りになりたくがないための願望だ.

幸せとは何かとは一様には言えないし,言えたとしても世界から不幸は消えないんだろう.結局今もこれからも僕たちにできることは少しでも多くの人が前を向いて生きられるように支え合うことだけだ.

人の漢字は誰かに支えられているとも寄りかかっているとも捉えられる.それらに共通するのは一緒に生きる誰かが居ることだ.

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