エスネコの自己紹介

皆さんこんにちは、エスネコと申します。

僕はまだ何者でもない学生です。
この記事は、『エスネコ』の過去話を中心とした自己紹介となっています。

■何者なのか

まずは簡単な概要です。

・2022年2月現在は日本のどこかにある高専2年生。18歳。
・人生最大の目標は日本の古き教育を変えること。今は教育の何をどのようにどうやって変えるのかを考えるために基礎教養を勉強中。
・理学(主に数学)が好きで人間に興味がある。

ここから過去を話しながら詳細を書いていきます。

・なぜ高専に入ったのか
僕が高専の存在を知ったのは小学生高学年のときで、父が教えてくれたのがきっかけ。

幼稚園に通う前から工作が好きで、家に帰っては紙を取り出して一日中ものを作り続けていました。この状況下で高専は作ることが好きな人が行く所と教えられ、すぐに興味を持ったと聞きました(親談)。

今でも「工作がたくさんできて理系な学校なんだろうなぁ」と認識していた記憶はあります。

時は経ち中学時代。進学の話が出たときに高専のことを思い出し、きちんと調べたことがなかったので、高専の文化祭に行ってみることにしました。

当時の僕にとっての初めての高専は、興味とトキメキの宝庫でした。

自分の専攻分野を深く掘り下げ楽しそうに話す高専生。見たことがない道具や機械、実験室。知識がない14歳の少年の心を踊らせるには十分なほどに憧れられるものがありました。


高専が好きだ。


この思いは受験勉強を頑張るエネルギーの源となり、日々の勉強に打ち込む大きな支えとなりました。が、予想外のことが起こります。
2019年の高専の受験結果は、

不合格。


しかし、僕は吐きそうになるくらい落ち込んだ後、自己目標の到達までの効率を考えると高校進学よりも一年浪人して高専へ進学の方が良いと判断し、翌年2020年2月に第2回目の受験で高専に合格しました。

と、高専に興味をもち入学するまでの経緯はこんなもんです。

・なぜ日本の教育を変えたいのか
大雑把に話すと

中学校に入り嫌いな勉強を強制される。

拒絶心がどんどん膨れ上がり、不登校になる。

長期にわたる不登校生活の中で人間に疑問を感じ生きる意味が分からなくなる。

はじめしゃちょーに出会い人生を楽しむ心を知り、「笑って」生きることを誓う。

自分が楽しいと思えることは目標に向かって進むことだと理解。

そんな中「殺せんせー」に出会い、教育に興味をもつ。

今の日本の学校は「笑って」生きることを教えてくれないから、自分がそれを変えてやると思い立つ。

というのが僕の人生最大の目標ができた理由です。

小学生の頃、なんだか学校がつまらなくて、「学校なんてなくていいじゃん」とか思っていた時期のこと。中学に入り大嫌いな勉強をやらなければならない。あまりにも嫌すぎて不登校になって、教育制度を変えることが目標になったんですよね。

特に、教育に興味を持ったのは殺せんせーの影響が大きいです。

姉が友達に勧められて買った「暗殺教室」をなんとなく手にとり、始めはただ面白い漫画として読んでいただけでした。それから何度か読み返し、段々と殺せんせーの言葉の意味を理解できるようになり、「先生になってみたい」と思うようになりました。

けれど自分の中学校は暗殺教室の3年E組の様にとても楽しいものとは思えなかった。今の学校に勤めても何も面白くもない。むしろ学校を潰したい。
ネット上では自分と同じような境遇に立った者たちが大勢居て、自分の学校以外にも同じような状況の学校があることを知り、ならば日本全国の学校を、暗殺教室みたいに誰もが楽しむことのできる学校にしてやればいいじゃないか。と結論に達しました。

以上の経緯が、教育改革が僕の目標となるまでの過程です。

■中学時代勉強が嫌で不登校になる

・中学一年生
小学生から中学生となり、心も弾んでいたときのことです。
中間テストがとても嫌すぎて体調不良を起こしてテストの日に学校を欠席し、その次の日、次の週と、どんどん休みを重ねていく内に、結果的に一年生の大部分を休んで過ごしました。

・二年生
半不登校のまま二年生へと進級。入学当初は卓球部に入部するが、続けることが困難だと判断し、パソコンを扱う文化部へと転部。
しかし、休み癖は好転することはなく悪化し続け、ついには完全に学校を休み昼夜逆転生活へと突入。

夜中は完全に一人で、PC版のマインクラフトにmodを入れて遊んでいました。めっちゃ楽しかった。

虚無感に襲われながらもマイクラで心を偽り続けていた時、暗殺教室に出会い人生の目標を考え

「自分みたいな人を救いたいな」

と、軽い気持ちで自身の人生を変えるための決断をしました。

2年生も後半。12月に入ると、不登校の小・中学生のための施設にいくようになりました。

その施設では通学の形式を取っていましたが、登校は9時半で、下校は午後3時ごろ。深夜生活明けの体にも負荷が少なかったです。
施設の大きさはちょっと大きめの一般家庭くらい。5~7人ほどの少人数で、
通うことにプレッシャーはそれほどかからなかった印象です。

・三年生
そんなこんなで三年生へと進級します。進級を転機に中学校へと登校を開始。登校できた最大の理由は、「日本の教育を変える」という思いでした。

ここからは変わり続ける日々が続きます。

・変化の日々
三年生一学期の5月中旬。
東京に行って林修先生の講演に参加する機会がありました。

・今の小学校は成績が最も低い子に合わせていること
・飛び級がないから優秀な子を腐らせていること

と、日本に蔓延る同調圧力の風潮が教育へも現れていることを実感しました。

・天才数学者との出会い
また、3年生になった時から本を読みはじめました。

ある日TSUTAYAで、人工知能の本(将棋AIのポナンザで有名な山本一成さんが書いた本、『人工知能はどのようにして「名人」を超えたのか?』)が偶然目に入り、人工知能という言葉に興味が湧いたのでしょう。気が付いたら買っていました。

当時の僕は全然人工知能のことを知らなかったのですが、この本を読んでからはプログラマーや人工知能エンジニアに興味を持ちはじめます。

そして、その本の中に、任意の図形の面積の近似値を求めることができる手法として、モンテカルロ法が取り上げられいました。
簡単に説明しますと、モンテカルロ法は確率を使い図形の面積を求める強引な解法です。

中学三年の夏休み、数学研究レポートが課題として出され、丁度いい機会だったのでモンテカルロ法を取り上げました。

父に頼み、C言語で乱数を生成するプログラムを書いてもらい、半径が1の円の面積を求めることができるのかという議題でレポートを提出。と、何事もなく終わったように見えますが、このレポートを通して僕の人生を変える出会いがありました。

レポート内でモンテカルロ法とは何かを説明するため、発案者について調べときのこと、Wikipediaを見ていると、命名者に「ジョン・フォン・ノイマン」という名前。なんとなく彼のWikiも見てみると、すっごい人ということが判明。

現代で生活する上で欠かせないものとなった、あるものを開発した人物の一人です。ゲームをするのにも、動画を見るのにも、仕事をするのにも欠かせないもの、コンピュータの開発者です。

ノイマンはハンガリー・オーストリア帝国出身の数学者で、第二次世界大戦の最中にコンピュータの開発に携わります。

彼を知った僕は、自分が住んでいる市の図書館で『フォン・ノイマンの生涯』という本を借りました。始めは彼の性格と晩年の様子が書かれており、
彼が成し遂げた業績や逸話などが取り上げられています。特に僕が気に入っている部分が、彼が亡くなる直前の描写です。

「ジョニーが臨終を迎えたウォルター・リード陸軍病院では、『国防長官と副長官、それに陸海空軍の長官も参謀長たちもぐるりとベッドをとり巻いて、最後のひとことにじっと耳を傾けていた』とストラウスが振り返る。」(引用:ノーマン・マクレイ著「フォン・ノイマンの生涯」1998 朝日新聞社)

この文章を初めて読んだとき、偉業を成し遂げた一人の天才のすごさを知り、その感動と驚きはすごいものでした。

どうして、たった一人の数学者が、ここまでの偉人に囲まれて最後を迎えているのだろう。僕はこの本をきっかけに数学者に憧れるようになったのです。

まだまだ書いたことはありますが、それだけで10記事分は行けそうなので今回はこれくらいで切り上げておきます。

■中学での出会い

もう一つ、中学校で最高の友人と廻り会えたことも話しましょう。

どんなに人にも、隣で支えてくれる人というものが必要です。「孤独を好む人がいるけれど、人間は独りでは生きていけない」という言葉もあります。

中学生になりたての頃、小学校で共に行動していた人とも離れてしまった僕が仲良くなれそうな人を探していたとき、親友と呼べる友達が一人できました。

ここから彼のことをK君と呼びます。K君にはこんな過去がありました。
・小学生のとき、一度転校したことがある
・故郷は東京で、僕の地元に引っ越してきた
・前の学校ではかなり酷いいじめを受けていた

こんな中、中学校に入り僕と出会ったといいます。

一年の時は同じクラスだったのですが、二年では別々になります。僕の登校日数はどんどん少なくなっていき、彼と会話する機会も減っていく。ですが、そんな状況の中でも、K君は僕の家によく来てくれました。

K君も、担任が酷くて自分も不登校になりそうだったと、後になって彼から聞きました。彼から聞いたことは「学校では辛い思いをしていたが、君と話すと落ち着くことができる。それに、楽しい会話もできるから、それが救いでもあった」と。

月日は経ち、三年生の最初の日。僕は約3ヶ月ぶりの登校をします。
その日はとにかく怖かった。久しぶりに登校するのが、こんなにも怖いのかと。けれど、この経験は僕の大切な思い出です。この思いのおかげで不登校の人の想いを理解することができるのですから。

怖い思いを抱えた僕の隣にK君がいたことが、心の支えとなってくれました。ここからは先ほど書いたように変わり続ける日々が続きます。

■高専受験

2019年2月に受験がありました。そんなに硬くならずに受験できたが、少なからず不安がある、という心境。そして、合格発表。高専の本校に訪ねて確認しようと中学校を出ようとすると、担任の教師に止めら、その場で合否を告げられました。

結果は不合格。

最初に告げられたときはそうでもなかったのですが、帰るとすごい吐き気が襲ってきたのを覚えています。約一年間の努力が実らなかった結果を思い知りました。

発表があった週末、これからどうしようと父と相談をして、確かそこで、コンピュータサイエンティスト(AIエンジニア)になりたいと思うようになります。けれど、高専に入って楽しみたいし、普通の学校では教育改革を進めるには環境が悪すぎる。なので、僕は浪人することを選択しました。

しかし、完全に無所属になるのではなく、一時的にでも所属した方がいいと言われたので、社会体験も踏まえて県立高校へと進学しました。そこで今の高校の何がよくて、何が悪いのかを実際にこの目で見てみようと思ったのです。

K君も同じ高校を受験し合格(高専すら一緒に受験して共に落ちた)していたこともあって、しばらくは普通の高校生として生活をしていました。

その後、退学をして無所属の状態で高専を受験し合格しました。

■落合陽一との出会い

少し戻るのですが、2019年の1月、日本の教育改革を目指し始めた僕は、「日本再興戦略」を唱えるある人物に出会いました。落合陽一という人をご存知でしょうか。

彼に出会い、今でもクリエイトや研究に刺激をもらっています。(最近になってやっと彼と同じ結論が出せるようになってきました。)
僕の教育改革の枠組みは彼がいなかったらとても脆く欠点だらけだったことでしょう。

「日本再興戦略」の他にも「魔法の世紀」や「日本進化論」、あとは2019年にあったseek∞(SXSW(South by Southwest)の後日談が議題でした。)というイベントに落合さんが登壇されると聞いて参加したりと彼についてよく見るようにしています。

今やっていることとこれから

今は自由に行動できる環境を作り、教育制度を変えるため、高専の勉強(主に数学)を中心に、自分の価値を高める修行をしています。

好きなことも、やりたいことも増えてきて、何を選び、何を自分の時間へ投影するのか。
最近は毎日好きなことをやっています。

笑って生きるために。

2020年6月投稿
2022年1月再投稿

この記事が参加している募集

自己紹介

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?