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(-∞,∞)に存在する音波

x,y,z方向に3次元.時間t方向に1次元.

人間の聴覚は渦巻菅の毛の時間あたりの変化量によって,強さ高さ音色が決まる.ある質量の位置が周期的に変化すれば,それは振動となり広義的な音になる.

動きがあれば,すなわちそれは音となる.

Musicircus

空間と時間の交点に在る音.

ウルトラマンを"見て",敵の"音"と合わさり物語が生まれる.
光だけでも,音だけでも成り立つそれは,時間の中にある問答を持ってして人に文脈として理解される.
次のMusicircusでは,統一性のない演奏で個々の視聴者が中心たりうることを"感じ",落合のいう"多元的な中心が広がっている状態"を肌で感じることができた.
胡蝶の夢のように,自身の感性が今の全てであると思っていた僕は,今回の音楽会がなければ音楽の偏在性に気づくことはなかっただろう.

一期一会

人生一度きりは,人間の存在が時間方向に伸びているならば納得できるし,仏教の輪廻転生とも矛盾しない.
そして現代は"身体性は時間・空間方向に拡張"され,過去へのアクセシビリティも上がった.
そのおかげで,歓びとは心の産物であることを強く意識できる.

奏者の表現に呼応するように逐次作られていた光は,いままでにない表現を作り出していた.彼が以前noteに取り上げていたVJ(video Jockey)の話題と会場で言っていた"やつら(LOVOT)は毎回音を生成しているから楽器だ"(※記憶からの書き起こし)ということを踏まえると,"演奏される映像"と表せる.

感想

落合作品の鑑賞は今回が初回だった.
書籍は6,7冊持ってるし読んでもいる.noteやyoutubeもフォローしている.作品に触れること自体はしていた.しかし,彼の文学以外の作品には触れたことがなかった.僕にとって彼は憧憬の対象であり追い抜く目標でもある.だから,彼と同じ空間に居合わせることは純粋な喜びを呼び起こした.一方,音楽も大好きだから日本フィルの生演奏にも大変心を打たれた.特に最終演目のバレエ組曲《火の鳥》(1919年版)は鳥肌が立つほど感動した.
落合の芸術性に対する感心と共に,演奏に対する楽しさも味わえた.

一度,落合さんの講演会に参加したことがある(seek ∞:SXSW2019の報告会).あの時の彼はアーティストよりも経営者のように感じた.今回は,満を持して彼のアート作品を初めて体験することができた.コロナ禍で配信といった手段で触れることはできがた,それでは彼の提唱する祝祭・身体性を理解できていないように感じた.
好きなアーティストのリアルイベントに参加するのは今回が2回目(完全に関係ないが,1回目は同月の8/21に開催された,ピアニストまらしぃさんの『幻想遊戯演奏会』inサントリーホール)だが,一流のアーティストたちが一流の楽器と設備で最高のパフォーマンスをする場に立ち会えるのは,本当に幸せなことだ.しかし,あふれる喜びと共に自身の修行不足も痛感した.

よくわからないやつの文章をここまで読んでくれた人に感謝.

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