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第2部 アメリカ編

10-2  ロッキーを超えて

 夜明けの明るさに目覚めると、車窓に水平線の暗闇が曙色に染まり始めていた。日の出の時刻が近づいてきた。日の出を見るためにラウンジカーに移動する。ゼファー号からの日の出は、一瞬のドラマだった。水平線の彼方の暗闇に、すーと陽が差し明るくなると、荒涼とした砂地と枯れ草が舞う風景が映し出された。夜明けは一瞬だった。地平線から太陽が顔を出すと、数分で燃えるような太陽が、陽炎の中に全容を現した。

 ユタ州に入っても、殺風景な荒野の乾燥風景に変化は無く。遠くの方に、禿山のシルエットが見える。荒野に鮮やかな黄色の花と銀色の葉の低木が点在する風景が、車窓を流れる。時折、夜明け前の明かりの中に古い廃墟のような小屋が、通り過ぎて行く。線路脇の道に砂ぼこりが舞う。強風に吹かれ、タンブルウィードが転がりながら、車窓を流れて行く。見渡す限り、荒野に建物は見当たらない。
 荒涼とした茶色く乾いた景色が、行けども行けども続く。風に煽られた黄色い低木が車窓を流れる。何故か。飽きずに車窓の景色を眺めている。白い砂漠から茶褐色に変化するだけの荒野の景色に見とれてしまう。こんな景色は日本で見ることは無いだろう。

 車窓に沼地の様な湿地帯が現れた。「Where are you traveling now?」とコンダクターに尋ねると、「Sir, right now we are near Salt Lake......ソルトレイクか?This year we have sunny days and dry weather ....... 日照りで水が干あがった?......continuing and the water level of the lake is falling. And the bottom of the lake is visible.」 と知らされた。(ソルトレイクか。沼見たいだなぁ)
 眼の前に粘土色の湿地帯の光景が広がっている。暫らく走ると、ゼファー号の左側に白い砂漠が見えてきた。(余り、見たことないな。この白い砂漠は何だろう?)
 流雲はカメラを構え、車窓からこの不思議な光景を撮り始める。すると、隣の乗客が......「Do you know? One of the lakes, Bonneville Salt Flats, every year Bonneville Salt Flats International Speedway is taking place......塩の湖面の上で国際スピードレースが毎年開催される」
「Will the race take place over the salt desert?」
「Yes. The speed recorded on the Bonneville Speedway is officially recognized as the highest in the world......ボンネビルスピードウェイの記録は世界最速記録として公式に.....」(今、塩の砂漠の横を走っているのか?アメリカだな。それにしても、凄い景色だ)

「Salt Lake Union Pacific Station」に予定より2時間遅れで到着した。
 ソルトレイク・ユニオン駅には15分停車する。レンガ造りの駅舎が、朝陽に輝いていた。下車する時、パンフレットを手渡された。
 流雲の鉄道旅の楽しみは、車窓の景色の変化から、駅舎の見学に移行していた。アムトラックは幾つものローカル鉄道会社の鉄路を走っており、各鉄道会社それぞれに特徴ある駅舎があり、停車する駅毎にユニークな駅舎が現れる。アメリカ鉄道の歴史を垣間見ることに愉しみを感じていた。
 
 駅舎は、サクラメント・バレー駅と同様に歴史の趣を感じさせる。赤レンガとクリーム色の石灰岩のフレンチ・シャトー風の洒落たデザインが眼を引いた。正面の傾斜屋根の中央に大きな時計が据えられ、左右の屋根には大きな丸窓のある塔がそびえていた。 
 駅舎内部に入ると、待合室の船底型のドーム天井に驚かされた。吹き抜け上部に並ぶステンドグラスの窓から、彩られた温かな光が室内に射し込んでいる。待合室の北側ドーム壁に、画家 John McQuarrie の手による鉄道開拓時代の面影を偲ばせる幌馬車やカウボーイなどの緻密画が描かれ、「1869年当時の大陸横断鉄道の『金の矛を打ち込む様子』が描かれている」とある。
 西側壁面には美しいステンドグラスで様々な種類の鉄道輸送の様子が描かれていた。歴史を伝える貴重な資料なのだろう。(それにしても、何処の駅も大陸横断鉄道の歴史を伝えている。アメリカの鉄道開拓は重要なイベントだったのだろう)

 案内板に......「ソルトレイク・ユニオン駅は、建築家 D.J. Patterson 設計で1909年に完成。駅舎は、石灰岩と赤レンガの外壁にテラゾー床材と大理石床材にステンドグラスの窓の組み合わせたレトロなフランス第二帝政様式に基づく優雅な建物。当時の男性用と女性用の待合室や鉄道病院、給食室、手荷物室などの面影を残すように1970年代に大改装された。この時に、オリジナルのスレート屋根を銅板に葺き替えた」と記されていた。
 東京駅の赤レンガ駅舎に良く似ていた。東京駅の方がひとまわり大きいが、ソルトレイク・ユニオン駅は綺麗に改装され、歴史的価値が高められていた。(東京駅も改装したら立派だろうに、薄暗く古臭いよなぁ)
 大きな鉄道駅には何本ものレールが構内に走っていたが、駅前には商店も見当たらず賑わいはなく、広い駐車場があるだけで閑散としていた。                  ソルトレイク・ユニオン駅を発車する。車窓に、朝焼けに染まった筋雲が帯のように流れ、「死海」のようなソルトレイクが消えると、一気にスピードを増し、ユタの荒野を一路南下し、コロラドに向かって走る。

 荒野の中を数時間走り、荒野の真ん中でスピードを落とし、小さな駅「Green River 」に停車する。グリーン・リバー駅に川は無かった。荒野にポツンと、小さな小屋と駅看板があるだけだ。乗客が乗り降りした気配もなく、スーッと何事もなかったように発車する。暫く走ると、鉄橋を渡る。グリーン・リバーは、清流では無く褐色の水を湛えた濁り川だった。駅名に値するほどの大きな川には見えなかった。荒野の中に緑の樹々が見え隠れし、前方に森林地帯の影が見えてきた。(どうやら、コロラドに突入したらしい)

「Grand Junction Station」に到着した。30分停車する。古典的な柱廊装飾が特徴的な石造りの建物が見える。外壁に「1906 Rio Grande Junction」のレリーフが刻まれていた。
 大半の乗客がグランド・ジャンクションの街に出掛けるようだ。流雲もカメラバッグを背負い下車する。

 ロッキーの山間部の街に現れた古代ローマ神殿を模したイタリアン・ルネッサンス様式の駅舎に、流雲は違和感を覚えた。確かに、装飾的な柱廊と丸みを帯びた優雅な外観は、ひと際、眼を引く立派な建物だが、ロッキーの自然と相容れない気がするが。完成当時は、街一番の建築物だったろうと想像させるが......。
 駅舎内に足を踏み入れると、ローマルネッサンス期の建築の影響が、色濃く表現されていた。ドーム天井の大きな空間に、古典的な柱や彫刻の装飾とアーチや円形の窓が多用され、室内に優雅な雰囲気を醸し出している。テラコッタの床材がローマ帝国時代の面影を感じさせたが、駅舎内は薄暗く老朽化が進んでいた。広々とした待合室には、暖炉があり、豪華で落ち着いた雰囲気の名残りを感じさせた。

 待合室に展示されたパネルには、「駅舎は、サンフランシスコの建築家 Henry J. Schlack の設計に寄る。1906年4月6日に着工し、1914年11月19日に完成。建築家 Schlack は、地域のシンボルとなる建築物としてグランド・ジャンクション駅舎をデザインする。当時、グランド・ジャンクションの街には、ヨーロッパからの移民が多く住んでいた。イタリアン・ルネッサンス様式は、親しみを感じさせる様式だった」と、説明されていた。

 駅前に商店街がある。メイン通りを歩いてると、画廊や銀行など様々な商店が建ち並んでいる。大きな映画館の前に大勢の人が並んでいた。「Star Wars/ Empire Strikes Back」のポスターが何枚も貼られ「スター・ウォーズ」の第2作目が上映されていた。(こんな小さな街でも最新映画が上映されるのか?それにしても凄い人気だな)
 駅前には、華やかな街の中心だったのを伺わせる雰囲気がある。確かに、単なる交通拠点ではなく、地域の文化と経済の中心地に相応しい建物として、駅舎が建築されたのだろう。イタリアン・ルネッサンス様式の威厳と壮麗さは、そんな期待を抱かせる街の中心に適した様式だったと、言えるのかもしれない。

 これまで見てきた駅舎もグランド・ジャンクション駅舎も、全てヨーロッパ文化の影響を色濃く受けている。アメリカ文化の原点がヨーロッパにあるのは理解していたが、眼にした建物はヨーロッパ文化をそのまま取り入れている。日本文化も、中国文化の影響を受けているが、日本は、日本的に同化させ独自文化を築き上げてきた。この違いは、植民地文化と移民文化にあるのだろうか。移民の多いアメリカは、オリジナル文化の継承にこだわる想いが強いのだろうか? 時代の記憶へのこだわりだろうか......。

 グランド・ジャンクション駅を離れ、ゼファー号は町中を走り、高速道路と並走しながら、町中を抜けて走っていく。新緑の美しい渓谷の曲がりくねった峠の縁を走り、コロラド川にぶつかる。車窓の眼下に、水の流れが早い急流が岩肌にぶつかり、水しぶきを上げながら流れていく。渓流沿いを走りながら、徐々に標高を上げていく。川の流れはますます激しくなり、垂直に切り立った峡谷が見える。岩肌むき出しの断崖、刻々と変化する色彩豊かに彩られたロッキーの雄姿を飽きることなく、眺め続けている。
 蛇行するコロラド川の渓流を渡ったり、渓流の脇を走る。車窓を流れる風景は街の賑わいからは程遠く、緑豊かな自然の中に見え隠れする小さな村落が車窓を流れていく。遠方に点在する小屋が車窓から消えると、山頂が切り取られたテーブルマウンテンが見えてきた。
 絶壁の崖、良くこんな崖の縁に鉄路を築いたものだ。壮大なロッキーを肌で感じながら、自然を眺める。
「Glenwood springs」に停車すると「Attention please, all passengers. The shuttle bus to Glenwood Springs Spa leaves from the station in 20 minutes.」と、アナウンスが流れた。 グレンウッド・スプリングスには、世界有数の天然ミネラル温泉があるリゾート地らしく、下車する乗客は多かった。(温泉があるのか。結構な人が降りて行くな)
 流雲は、駅舎見学に下車する。駅舎は、中世ネオロマネスク様式だ。蒸気機関車はアメリカでも製造されていたのに、駅舎はヨーロッパ建築に依存している。この当時の鉄道開発には、ヨーロッパ資本が投資していたのだろうか。それとも、建築様式やデザインへのヨーロッパの影響が強かっただけなのだろうか。

 ロッキーの山並みをバックにレンガ塔が2塔、シンメトリーに聳えている。ドイツのネオロマネスク様式なのだろう。赤砂岩と赤レンガの駅舎の横に、標高 5,761フィートの標識が立っていた。
 ロッキーの山並みに良く映える駅舎は、洒落れたヨーロッパの高原建築を連想させる。
 2塔のレンガ塔の下を潜り、室内に入ると、大きなアーチ型の開口部があり待合室に繋がっていた。淡いモスグリーンの塗り壁と木製の腰壁パネルのシンプルな室内に、アールデコのペンダントライト、シーリングファンが吊り下げられていた。大きな空間に、年代を感じさせる古ぼけた大きな木製のベンチが、何列も並べられていた。

 売店に立ち寄り「駅舎の絵はがき」を眺めていると......「The stone on the exterior of this building is Frying Pan River Red Sandstone, which comes from within the state of Colorado......この建物の外壁の石材は、Frying Pan River Red Sandstoneで、コロラド州内で産出されたものが使用されて居るのよ」と、話し掛けてきた。
 売店に写真パネルが数枚展示され、「グレンウッド温泉プール」のパネルには "世界最大の天然温泉プール " と表記されていた。(温泉はプールなんだ.....)「グレンウッド・キャニオンを通る写真」には、 "世界のシーニック・ライン約13マイル、高さ1,300フィートの壁がある峡谷 " と自然の驚異を伝えていた。
 駅前は小さな広場があり、数件のショップが並んでいるが、有名なアスペン・スキー場への玄関口としては、閑散としていた。

 眼下にコロラド川を眺めながら、ゼファー号はロッキーを登坂する。標高が上がると共に、樹木の葉は緑の濃さも密度も増して来る。ゼファー号は渓谷の中、曲がりくねった渓流の脇を走る。荒々しい激流の流れと美しい緑の森林風景が続く。線路脇に、低木のブシュの雑木が流れる。コロラド川の水面が途切れ、開けた広場が見えてきた。
 ロッキーの小高い山をバックに赤茶けたトタン屋根の駅舎が見える。敷き込み線が何本も見える。駅に停車した。駅名板「Bond Station」の下に、標高6,742フィートの表記がある。(昔はこの町も何かの要所だったのだろう。今は見る影もなく寂れている)
 ゼファー号は順調に登坂し、グレンウッド・スプリングス駅からボンド駅まで約300m登って来た。リオグランデ・ゼファー号は、登山鉄道の名に恥じぬ登坂力を見せている。
 ボンド駅を出ると、鉄路は右に、左にカーブを繰り返しながらロッキーの山並みを登って行く。渓谷の間に、青い湖から立ち昇る湯けむりが見える。

 山頂の尾根を行くように、ゼファー号は登坂を続ける。更に高く、明るく開けた高原の街が見えてきた。夕刻6時10分に「Granby Station」に停車する。標高 8,333フートまで登ってきた。未だ、陽が沈む気配は無い。グランビー駅は明るい陽射しに包まれている。
 グランビー駅を出発と共に、コロラド渓谷の山頂を目指し登坂する列車は、標高9,100フィートのアムトラック鉄道の最高地駅に「Fraser Station」に到着した。(標高2,700メートル以上になるのか)
 車内アナウンスがあり、「In midwinter, the temperature drops below minus 45 degrees Celsius, competing for the "Icebox of America" record......真冬にはマイナス45℃以下になり、「Icebox of America」の記録を競っている......『The Winter Park Ski Resort』 is located at Fraser Station, and the ski area has been operated by the Denver County Government since 1940......『 Winter Park Ski  Resort』があり、スキー場は1940年からデンヴァ―群政府により運営され.....Since 1950, the company has operated a special winter train, the "Ski Train," from Denver.」と、流れた。
 車窓に、別荘が立ち並ぶ、華やかな街並みが見える。冬は賑わうスキー場も今はひっそりとしている。 ロッキー山頂に架かるスキーリフトを眺めていると、
「Attention, please. We will pass through the Moffat Tunnel which opened in 1928. The Zephyr will be traveling 9,239 feet at the highest altitude.」と車内アナウンスが流れる。
(これから Moffat Tunnelを通過するのか。最高標高地2,816 mを走行する)
「モファット・トンネルは、1928年に開通した全米第3位の全長6.2 マイルのトンネル。トンネルが開通前は急勾配のループ線やスイッチバック路線が活用されていた。標高11,676.79 フィートの Rollins Pass の峠をを越えていた」とパンフレットにある。
(凄い。昔は 3,559.09 メートルの峠を越えていたのか、一寸想像つかないな。富士山の頂上付近を列車が走っていた?)

 スキー場のロッジや別荘の建物が車窓を流れて行く。岩山や断崖のロッキー風景から、緑豊かな森林地帯に突入する。森林の上に、山頂に雪を被った尾根が見える。
 深い渓谷と美しい湖を通り過ぎると、急カーブを何度も曲がりながら登る。荒々しく削り取られた岩肌の中に列車は突入した。トンネルに入った。荒々しい岩肌のモファット・トンネルを時速約80キロメートルで走っている。(何となく、最高地に向かって登っているような気がする。確かに、トンネルは長い)

 暗闇のトンネルを抜けると、眼の前がパッと明るくなった。山間の向こうに草原のような平原が望める。木立の向うに険しいロッキーの山並みが続く。雲の影のような山々を背後に従えながら、列車は急カーブを曲がり、標高1,000メートルの長い下り坂を一気に下って行く。車窓に息をのむほどに美しい眺めが広がる。眼下に広がる渓谷の絶景に、コロラドの大自然の驚異を間近に感じた。

 曲がりくねった渓谷の下り坂を猛スピードで下って行く。標高が下がるにつれ、ロッキーの荒々しさが消え、 樹木の生い茂る緑豊かな森林風景へ。森林地帯から平原へ。
 大きなカーブを描くオメガ状の鉄路が敷かれた平原に突入する。車窓に、オメガループを走るゼファー号の姿が見える。カーブの先に峠を下る先頭車両、最後尾の客車が追いかけるようにカーブを走って来る。
緑の草原の中、オメガループを走るゼファー号が車窓を流れて行く。鉄路が見え隠れしながら、草原に消えて行く。カーブを曲がる度に、大平原の雄大な夕暮れの景色が近づいてくる。グレート・プレーンズと呼ばれる大平原の向こうに、デンヴァーの摩天楼の明りが、薄っすらと見えてくる。
 山間から見下ろす大平原の雄大な景色に、思わず息を飲む。余りのスケールの大きさに、流雲は鳥肌が立つような感動を覚えた。夕闇の中、渓谷の森林地帯のシルエットが消えることなく何処までも続く。川沿いを走り、牧場の脇を下り、平坦な平原地帯を少し速度を緩めながら走る。住宅の建ち並ぶ森林地帯をゆっくりとデンヴァ―に向かって走り続ける。鉄道旅も終わりに近づいている。

 デンヴァ―郊外に入ると、数百車両の2段積みのコンテナ貨物列車とすれ違う。併走する高速道路に車の明かりが溢れていた。久し振りに、高速道路を走る車の明かりを見た。
 車窓越しに、街の音が聴こえる。都会が近づいている。ビル建築用のクレーン鉄塔の点滅灯が車窓に、幾つも見える。(中々大きな街だな。中層高層のビルが建ち並んでいる)

 夜9時10分。流雲の終着駅「Denver Union Station」に到着する。
 構内に、何本もレールが敷き込まれてた大きな駅だが、人影はまばらだった。ゼファー号の乗客の乗り降りが、ひと段落すると駅は静寂に包まれた。閑散とした駅に「列車はシカゴに出発するまで30分程停車する」とアナウンスが流れた。 
 流雲はプラットフォームから、大きな扉を潜り駅舎に入る。
 流雲は、その豪華さに驚かされた。デンヴァ―・ユニオン駅は、これまで旅してきた何処の駅舎より立派で豪華な造りをしていた。眼の前に、流雲がアメリカ鉄道旅をイメージした「駅舎」があった。

 駅舎内に入ると、歴史ある高級ホテルのロビーを思わせる大空間が広がっている。
ロビーの吹き抜け空間は、有に10メートル以上の高さがある。天井から豪華なボザール様式の大きなシャンデリア・ペンダントが3つ吊り下げられ、黄金色の光を放っている。広く薄暗いロビーの大理石の床を歩く足音だけが響きわたる。年代物の木製のベンチが置かれているが、人影がも無く、寒々しく感じられる。それ程、夜が遅い時間ではないと思うのだが……。
 ユニオン駅舎のアーチの高窓に星空が瞬いている。
 ロビー奥に、バーカウンターや売店やチケットブースがある。その周りには賑わいがあり、乗客が行き交っている。東京駅程の人出では無いが、都会らしく騒然としていた。
 流雲は、遅い夕食にバーカウンターに座った。年季の入った傷だらけのカウンターの手触りは、カーボーイ時代を彷彿とさせた。ビールをオーダーしたら、生ビールがカウンターを滑ってきた。夜食用メニューから、オニオン・スープにローストビーフ・サンドウィッチを注文する。目的地に辿り着いた安堵感だろうか、少しパサつくローストビーフ・サンドウィッチを食べる。流雲は食事をしながら、車窓から眺めた1,200マイルの鉄道旅の素晴らしさを思い起こしていた。目的地に辿り着いた安心感からだろうか、食欲が倍増し完食した。
 ハワイやサンフランシスコで体験した不思議には巡り会うことは無かったが、車窓から眺めたネバダからユタの殺風景な荒野の景色も、ロッキーの山々が描いた大自然の風景も忘れられない記憶を流雲の心に刻んだ。

 ロビーを抜けた玄関ホール壁面に「ユニオン駅」の歴史写真が展示されていた。写真パネルは3枚あり、一番古い駅舎の写真は、カンザスシティの建築家 A. Taylor 設計によるロマネスク・リバイバル様式の駅舎が1881年5月に完成したことが記されていた。
 その隣に駅舎の中央部分が1894年に焼失後に再建された写真があり、カンザスシティの建築家 Van Brunt & Howe により、オリジナルを継承したロマネスク・リバイバル様式により再建されたことが記されていた。最後の写真パネルには、現在の駅舎の写真が展示され、1881年に建設された旧駅舎の両翼部分を活かすように、デンヴァーの建築家 Gove & Walsh により、ボザール様式の中央棟が設計され、1914年にオープンしたことがわかる。

 現在の駅舎は、改築が繰り返された第3世代の駅舎だった。しかしデザインに全く違和感が感じられない。しかし、これほどまでにヨーロッパ建築への忠誠心が強いのは驚きでもあった。今回の鉄道旅で駅舎を巡り、ヨーロッパ建築の影響の大きさを見てきた。

 アメリカは19世紀末から20世紀初頭に、「City Beautiful Movement」が提唱され、都市の美しさや機能性を重視する都市計画や伝統的な様式美が建築に求められた時代だ。多分、都市美運動の影響は大きかったのだろう。また、ヨーロッパの移民が多く、ヨーロッパ文化への憧れや技術力への畏敬の念もあったのだろう。
 流雲が鉄道旅をイメージした時「オリエント急行」を思い浮かべたように、美的なヨーロッパの建築様式や豪華で装飾的な駅舎デザインへの憧れもあったのだろう。
 アメリカの鉄道史は、ヨーロッパの建築史と密接な関係にあり、切り離せないものなのだと実感した。駅舎から、アメリカ建築に触れ、改めて建築デザインの奥深さを知った鉄道旅だった。

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