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「丹田交差」合宿所感 (番外編/太和の気)

阿吽の二義は、拡散・収縮とその循環を現している。
それについて私は若い熱狂の頃、忘れられない経験をしている。

二十代、激しい稽古の中で心身の疲労が限界に達したのだろう、雷が落ちるような衝撃と共に、いきなり高熱を発して身体が動かなくなり、その場でぶっ倒れたときだった。

1998年の大晦日だった。留学して八卦掌を学び、拝師が叶い内功をやり始めた矢先の事だった。
夕方花火の音を遠くに聞きながら、稽古をしながら年越しをしようと野外で立禅を組んでいた時にそれは起きた。

見慣れた世界がぐるぐると回りだし、気がつくと私は宇宙の理(ことわり)の世界?に居た。

不思議な感覚だった。つい先程まで全身に悪寒が巡り、頭痛吐き気目眩に巻き込まれていたのが嘘みたいに、何の痛みや苦しみも感じず、気がつけば私は観察する眼差しそのものになっていたのだ。

宇宙は、世界は、そして人間、無生物に関係なく、総てが阿吽の立体開合をし、裏が表に、表が裏に、常に湧出・循環している。そしてそれは千変万化の豊潤なる顕われの源泉であると同時に、冷徹で厳然とした、歯車のひとつの狂いもない、絶妙な法則によって構築されているようにも見えた。

そのとき何故か私は、先代法印が口癖のように言っていた「たかがされど、されどたかが」を思い出していた。

普段は美醜善悪明暗の、めくるめくダイナミズムに圧倒されながら生きている私も、ひとつ帳の向こうでは、時が無くなったような静謐の中で、留まること無く展開する、シンプル極まりない美しい立体模式図が存在する。
私は世界の裏側に居て、世界のもう一つの貌を知ったと思った。

そのとき不意に私の傍らから声がした。
「お前の直向きさ、健気さに感じたので、少しだけ秘密を垣間見せてやったのじゃ。」
それはまるで仙人のような風体の、山のように巨きなご老人だった。何故か私は「ああ、この方を私は知っている。この方は私の導きの師だ。」と思った。

「この経験を、必ずや銘記しておかなくてはならない……」震える思いで強く念じると、なんとか手が動くではないか。
頭は宇宙に居て誰かと話している。しかし身体は這いずって寮に戻り、自分の部屋でノートを手探りで探してボールペンを掴むという、離れ業を試みる。脂汗を滲ませながら虚仮の一念で、宇宙の理法について仙師から聞いた内容を筆記していった。

あれから何時間が過ぎたのだろうか、1999年最初の朝日がカーテンごしに顔を照らし、気がつくと私は、寮のベッドの上で吐瀉物に塗れながら、ボールペンを握り失神していた。

しかし昨日の強烈な体験は、生々しく私の中に息づいていた。あの金剛界とも言えるような、整然として美しい理智三昧の世界は、しっかりと私の印象に根を下ろしていた。しかし………件のノートを開いてみると、そこは無数のミミズがのたうち回っているような、最早筆跡とも解らない模様が、昨夜の起きたことの異常さを物語っているのみだった。

嬉しかったのは、気を失いながらも字だけでなく幾つかの図形を描いたのだが、その二次元に固定されたカタチが、昨日の経験を思い出すためのシンボルとして機能してくれたと言うこと。

後日、富士山の麓、石割山で修業をしている時に、セカンド・インパクトが来た。
今度は目に映る総ての世界が、趣きと善意に溢れて私に微笑みかけてくるような………と、肚の奥底からまたもや何者かの大音声が響いてくる。
空気を震わせる意味での声、と言うのは無かったが、それはしかし確実に(声)だった。
その声は肚から湧いてきて「これを太和の気と言う」と、頭の中で響いた。

二十六~七に掛けて、こういった何とも図り難い体験をしたお陰か、以後私の躰術に関する感心は変質せざるを得なかった。

「太和」とは何なんだ?「太和の気」とは、ただの気の所為なのではないか?
疑いつつも、あの強烈なイメージが焼き付いて消えず、正調正宗の武術を学びながらも、何処かにこの「太和」への道筋が隠されていないかと言う探求は捨てられなかった。

それから二十年………誰にも言えず、誰からも理解されず、しかし捨てきれない幻影を追って稽古を重ねてきた。

そうして四十代も終わりに差し掛かる時、出逢ったのが「大元流胎術」なのだった。

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