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サインのお話

随分前のことですが、地元の図書館に行きました。
元々戦前の建築「帝冠様式」と呼ばれる建築様式の市役所、五市合併してからは区役所だった所です。


図書館になってから、初めて入りました。
青木茂さんの補強/改築、とても心地よく嬉しかった。
でも、ね。ちょっと疑問があったのでした。
まあそれは僕の仕事に関わる部分だから仕方のないところかもしれないけれども。


エレーベーターや階段のサイン、トイレまで、
「トイレ」とか文字がラミネートパウチされたものが
ベタベタと上から貼られていたのです。


まあどこでもよく見る光景ではあります。
文具王の「デザイナーはテプラ貼られたら負け」を思い出しました。
もちろん、あの話題になった「かしわ」のコンビニコーヒーメーカーも。


でもね、
「公共空間」の場合はちょっと事情が異なるんじゃないかと思ったのです。
確かにモダンすぎてわかりにくいサインというのは
たくさん存在する。
でも、上からベタベタ貼ることが正解かというと
僕はどうしてもそうは思えないのです。


「わかりやすく」なっても「みぐるしい」ものになってしまうのなら、
それは美意識への冒涜だと思うんです。


もちろん容易に想像出来る。
「トイレはどこですか?」
「こんなんじゃわからんよ」
「カッコウばかりつけてわからんかったら意味ないだろ」
ってね。


でも、そのクレームが出た際に
出来ることって、まだあると思う。
例えば。
「申し訳ございません、こちらです」
「こちらがエレベーターの表記になるんですよ」
「わかりにくくて申し訳ありません」
「これからこれがここの「トイレの表記」だと憶えていただけると幸いです」
もしそう返したら、って思うんです。


一度目にわかりにくいなんて当り前なわけで。
ピクトにしても決して最初から直感で解っているわけでなく、『必ず』一度は学習しているわけで。
初見で読める記号なんて、漢字だって書体だってあるわけないわけで。
でも初見であっても、人生の中の膨大な学習の中で、その記号をある程度、想像出来るようになるわけで。


デザインというものを考える。
「かしわ」のコーヒーメーカーも、その他テプラを貼られる機械も、
「初めて」で「ひとり」で、使えないといけない状況なのに、わからないからベタベタされるんです。


でもね、公共空間の「サイン」に於いてはちょっと事情が異なると思うんですよ。
だって、職員がひと言、「わからないことがあったらきいてくださいね」
と言えたら、このベタベタは回避されるんじゃないかと思うんです。


「公共空間のデザイン」とは、「公共空間を提供する人」の意識づくり、ホスピタリティと言うと大袈裟だけど、そういう部分も含まれるんじゃないかしら。
カウンターの向こうの職員の方々が、少しカウンターの外に出てくるだけで、
空間は守られたんじゃないかと思うんです。
ベタベタは「また文句言われるのが嫌だから」の予防策であり、それ以外の理由はないです。説明すればすむことをマンパワーですむとこを、その「面倒」を避けるためにやってることです。


サイン・ピクトは「決まり事」で「言語」で「記号」です。
デザインが悪い、言語として不完全という場合ももちろんあるのだけれど。
でもその「記号」を教えることもしないで
イチランク下の「にほんご」と言う「説明」を貼り足すというのは公共空間としてはどうなんかな?と、思います。
同じ情報・記号を二度も三度も重ねるから、ノイズだらけになって空間は汚れる。
一度目の案内を、より高次な記号を学習する機会を「ナカノヒト」が放棄したせいで空間はダメになる可能性もあると思うのです。

より高次な記号を共有するためにデザイナーは骨身を削っている。
稚拙な言葉しかつかってない小説なんて読めないじゃん。
より高次の言語・記号を知ることで、
新しく、深く理解出来る世界というのもあって、
それが「説明」ではなく「表現」になり、「物語」が生まれるわけで。


より良い空間を楽しむために、
職員の施設利用者へ出来るアクションは、テプラやラミネートではないと思うのです。
その「記号共有」に対する努力が、結果的により高い「文化意識」になってくれるんだと僕は思うんですがどうでしょう?



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