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奥田さんのこと。

ちょっとなかなかショックで、だんだんとダメージが大きくなってきている気がします。知人の奥田染工場、奥田博伸さんの訃報をFacebookで読みました。
44歳。なぜ?としか言いようがない。

同士として。

友人とはかけない。
そもそも僕は友人、友達というぼんやりとした括りが苦手です。特に東京に来てからはそういう括りの関係を作らないようにしてきました。それは「ともだちだから」という入り口で始まって、そこからその「ともだち」と万が一ものづくりをしないといけなくなって、その「ともだち」の「モノ」のレベルが低かったとしたらどうする?というある種の恐怖心のようなものがずっとあるからです。
仕事とプライベートは別、と言っても「ともだち」は入り込んでくる。「仲間内でワイワイ」はいいけど、例えば「オレ木工できる」とか「オレデザイナー」とか言ってる「ともだち」とオフィスをシェアなんかしてしまうと、超一流の木工房があるのがわかっているのに、超一流のデザイナーに頼めるのに、「ともだち」の呪縛に囚われ、「ともだち」と「ワークシェア」なんてことをしないといけなくなるからです。
もちろん、それは自分自身にも返ってくるわけで、別に誰の知り合いでもない九州からの新参者はモノだけをレベル低い前提の色眼鏡で見られる。でもそれでいいと思いました。

「超一流のものづくりができるようになりたい。」
「知り合いだから仕事がもらえるなんていう昭和の営業なんてやりたくないしさ、仕事のなかで見出されるようにしないといけない」
東京に出てきた15年前から強迫され続けてきたこの思いと、「ともだち」と、それに付随する関係は完全に相反するものだとして、僕の中で育っていました。

でも、許されるのならば、奥田さんは友人と書きたい。そうも思ったりしますよ。よく一緒に飲んだしね。でもまあ、全然別業種なんだけど、同じ考えと情熱を持った「同士」と呼んだ方がやっぱりしっくりきたりします。

みやしんさんのお話

奥田さんと初めてお会いしたのは12年前です。
東日本大震災のあったその春、僕はミントデザインズのショーでネオンサインのヘッドピースをつくるというお仕事をしました。

FASHION PRESSより拝借

僕の中でもすごい好きなお仕事で、本当に楽しかったんです。
で、その後のファミリーセールに行った時に、ミントの勝井さんから紹介していただいたのが奥田さんとの始まりだと思います。
ミントデザインズのテキスタイルってすごい綺麗だから、僕もめちゃくちゃ気になっていて、その人が「あれつくった人ですか!すごいですね!」「今までのショーの中で一番良かったですよ!」って褒めていただいてものすごく嬉しかった。
そこからすぐ、当時は熱心にやっていたTwitterで繋がったのでした。

もちろん金物屋と染め屋ですから、仕事で重なることはなかったのだけど、「ものづくり」として青臭い話ばかりツイッターに連投する僕にやたら反応してくれてたと思います。そうして僕も奥田さんのものづくりを尊敬し、年下だけど、僕も追いつきたいと内心思っていました。

そんな時に、奥田さんがあげたのが「みやしんの廃業について思うこと 『いいものを作ることと儲かることはそもそも違う』について:ゆるゆるnotes」という自身のブログでした。

ゆるゆるnotes2012年9月19日


これ、ぜひよんでいただきたいです。 こちら
多分僕が読んだのは結構夜の深い時間。
もうこの文章を読んで、悔しくて悲しくて、「何がものづくり日本だ!」と、怒り散らかしたのをよく覚えています。
多分当時のTwitterではかなりバズったんじゃないかな?たくさんの人がその無念に対して色々な思いを感じてくれたんじゃないかと思います。
奥田さんもやたらリツィートされてびっくりした。って言ってました。

それからはツイッタやfacebookで、やたら青臭い「ものづくり」や「デザイン」の話をしたと思います。僕が急に怒ってワイワイ言っていると、コメントをよこすのは大体決まっていました。「冷静で敢えて反面を問いかける大杉さん」と「莫大なデータと知識の中から助言をしてくれる柳本さん」と、「おんなじぐらい青臭い奥田さん」でした。

とある、コメント。

サノケンオリンピックエンブレムの時も、僕らはみな擁護派でして、「パクリ」なんていう汚い言葉は遣わずに、自分たちのデザイン論やつくるということを話しました。
でも奥田さんは実はズルくて、後でブログにちゃんとまとめてあって、その文章がびっくりするくらい読みやすくてしかも深くって、ちょっと反則だよなあ、僕もそこそこ異業種としては自信あったのに完全に負けたなあと悔しい思いもしたのです。でもほんと、インタラクティブな感じで何度もやりとりしたのってすっげえ楽しかったし、自分の考えに自信を持てるようになったのでした。そういえば、ミントのファッションショーを一緒に見たこともありました。奥田さんはミントの生地のプリントをやっているから当然だけれども、僕もミントさんの計らいか、やたらVIPな席順で、ミントさんからしてみれば僕らなんかに見せても儲けにはつながらないのにやたらステージの近くでちっちゃいオッサンと白髪テンパのオッサンが仲良く並んでキャッキャ言いながらそのコレクションを見たのでした。

初コラボ!

で、そんなこんなの数年間。奥田さんは「つくるのいえ」とかやり出して、なんで僕が呼ばれないんだおかしいだろと思ったり、でも会社の職人がついていない僕単体だとそんなに上手くないから恥ずかしいなあと思ったりしたものです。
けれども先月、ついに、な、話が来たのです。

とある施設のサイン計画。デザイナーの要望は「グラデーションの色の載った布を張って、そこに印刷してサインにしたい」というものでした。

本社から、「布のやつは別途工事でいいよね?」と連絡があったのだけど、「いやいや、できるよ、これは僕が受け持つよ、いいとこ知ってるから」と答えました。
もう嬉しくて、すぐに奥田さんに連絡しました。

電話したら「変態のオーノさんだー!」って第一声。

メッセンジャーでこんなやりとりを繰り返しました。
「月曜日は学校に行ってるんで、打ち合わせできますよ、飲みましょー」と。

まあそれ以外にも数百項目あるような見積を僕はしていたから、結局打ち合わせするよりも見積を出してもらうことのほうが先になり、一緒に飲むことは叶わなかった。でもやっと、まだ僕もこの仕事が取れているわけではないけどやっと、「青臭くめんどくさいちっちゃいオッサンと白髪テンパのオッサンのものづくりコラボ」が実現できるんだと喜んでいました。


でも、今日、奥田さんの急逝を知りました。
ちょっと信じられなかった。
モヤモヤしたまま行った今日の現場。
打ち合わせ中で出れなかった電話は、「奥田博伸」と。
「うそピョーン」って言ってもらいたかった。
でもコールバックした先は、奥田さんの奥さんでした。

「オーノさんからのお仕事のお話は聞いていましたので、失礼ながらご連絡差し上げました」と。

「オーノさんからのお仕事だって、すごい喜んでいたんですよ」
その言葉を聞いた瞬間に、いなくなったことを実感し、涙が溢れた。
「僕だってどんなに楽しみにしていたことか!」って一所懸命に答えました。

さっき事務所に帰ってきてから、本当はやんないといけないお仕事もたくさんあるのだけれども、ともかく忘れることがないように、この文章を書き始めました。
奥田さんのFacebookを辿ってみると、やっぱり色々思い出しました。

奥田さんのfacebookより

僕への気遣いか、友人限定の投稿として、僕の顔があることに驚きました。
この時何を話したかなんて、全然覚えてないんだけど、
コメントを見て思うに、多分また気取って青臭いものづくりを話したんだと思います。

本当に悲しくて悔しい。
でも僕との仕事を奥さんに喜んで話してくれたってめちゃくちゃ嬉しい。

でも僕はまだものづくりをしないといけないって言い聞かせてますよ。怒られたくないですからね。

心からの友人として。









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