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M3GAN-ミーガン・面白かったんだけど。

まあもちろん気になっていて、でもコロナ禍だったし劇場はなあ。と思いつつ、配信で購入にて観たのです。

いや、すごい面白かったよ。

映画として102分を楽しむ、と、思うとかなり良い出来でした。なぜこれを開発したのか、なぜ姪のためにつくったのか、作ることが出来たのか、前半かなり丁寧で、登場人物の心理変化、起伏もよく織り交ぜてある。
またいわゆる「死亡フラグ」もきっちり立ててあって、お決まりもやってくれるので飽きさせない。まあこのミーガン役エイミードナルドの身体能力の圧倒的な高さが絵としても本当に完成度の高さを導いています。全米スマッシュヒットも頷ける。

でもなんだか、引っかかる。

前半がすごい丁寧なんですよ。「心の傷」に対してもちゃんと時間をかけて描写してある。でも後半になるとやたら早い。
なんかそこに、本当はもう少し深掘りしたかったんじゃないの?という、無念とまでは言わないけれどもやりたかったことのチラ見えが気になるのです。

プロットとして

「両親の事故死による心の傷」
「おばに引き取られる子ども」
「獰猛な犬と感じ悪い隣人」
「心理カウンセラー」
「おもちゃ会社のワークホリック」
「アンドロイドを作りたい」
「他社のライバル商品を押しのける」
「大学の時に作ったロボット」
「他の『おもちゃ』は要らない」
「Model 3 Generative ANdloid」
「会長プレゼン」
「会長には同じくらいの歳の孫」
「企業データ流出」
「躾を任せる」
「学校に行かずに家で教育」
「インターネットによる学習」
と、だいたいこのくらいの感じ。
でもこの丁寧さが、後半はあまり生かされていないのです。

チャッキーのように連続殺戮を行うんだけれどもチャッキーの一番最初のやつみたいに「人形が犯人なのに誰も信じてくれない」というもどかしさ(アンディと観客だけわかっている構造)と似た表現はあるのだけれど別にケイディが疑われることはないというところもなんだか勿体無いし、他社にミーガンの情報を売った部下も意味ありげだったのに何も効いてこない。で、「会長の同じくらいの歳の孫」も本当は出せたんじゃない?とも思ってしまいます。

おそらくこれ、「わかりやすいホラー」を途中で求められたんじゃないかな?

先にも述べたようにこの映画の魅力のひとつは「ミーガン」という圧倒的に魅力的な「キャラクター」です。
で、「キャラ」が立ってしまえばあとは「大体バズる」という方向に制作会社サイドがなってしまったのではないか?と想像してしまいます。
日本でも「ミーガンダンス」がTikTokでバズって、というような売られ方をしていました。アンバサダーだっけか?タレントが真似をしてYouTubeに流すとか。

数秒で心を掴んであと数十秒の動画を見せる。
キャラクターが成立しているからできるやり方です。

だから映画も、大変失礼な言い方だけれども「そういう層」に応じた作り方になってしまったのではないか?102分という短さも「「そういう層」相手ですから」と言われれば納得する。
そのくらい誤読のないように、そうしてビジュアルで完結するように、後半はそんな「過多」を感じてしまいました。(よくよく考えるとあのCEOが部下と一緒に殺されるのは理由わかんない。でもあれが一番の山場という)

ホラーに深さを求めるな

なのかなあと。でも監督(前の映画もホラーらしいですね、未見)はいろんな筋道を立てたくて、いろんな含みを持たせたくて途中まで撮ってたんじゃないかなあと思えるんですよ。

AIのベースメント

ところで「安全装置はなかったのか?」という点。
この映画の最大の欠点はシンギュラポイント・特異点がわかりにくいというところ。「ケイディを守る」から「自分が一番」に切り替わるポイントがぼんやりしている。同じようにケイディが「ミーガンいなくて大丈夫」になるのも急だから最後の戦いも急にターミネーターみたいでおかしな感じになっている。
本来ならば主従関係のある(という言い方は語弊があるかもだけど)親子や動物なら色々なレギュレーションで「自身を」統制しているはずなんです。犬でも主人に怒られたから急に噛み殺すってならないはず。コマンドによって統制が取られているはずの機械なら尚更なんですよね。ケイディがいじめられたら殺す、ならわかるんです。ターミネーター2でシュワちゃんがジョンコナー以外を殺してしまいそうになるのと同じです。でもそこから学習して「自我」「自衛」でケイディ殺す、となるのはちょっと唐突すぎる。それにミーガンはインターネットで学習しているわけで、それならば「ロボット三原則」は学ばなかったのか?ということも考えてしまいます。

そもそもインターネットの学習の中で「善悪」の概念はどこから学ぶのか?という道徳とも躾とも言える問題が出てきます。

そういえば気になっている映画があって


私の、幼い息子イマド

アジアンドキュメンタリーズ(こちら)で見ることの出来るこの映画「私の、幼い息子イマド」

クルド人でヤジディ教徒の男の子イマドは2歳のときISに拉致され、2年以上拘束された後に解放された。拘束中はIS戦闘員に連れ回され、銃の扱いを練習。殺人や斬首の映像を見て育った。大人の男と一緒にいることを好み、女性やヤジディ教徒を敵視。同世代の子どもを殴り、人形の首を切って遊ぶ。凶暴な発言と暴力的な行動に、周囲の大人もなす術がない。孤立するイマドに、母と祖母、児童心理学者のベリバンが寄り添うが、母のガザラは夫が拉致されたまま戻らず、自身も性奴隷にされた恐怖体験から立ち直れずにいる。IS統治の被害に遭った子どもや女性たちが、平和な日常を取り戻すために困難な道を進む姿を克明に捉えた作品だ。

アジアンドキュメンタリーズ解説より

見たいとは思っているけれども解説読んだだけで胸が締め付けられて、どうしても購入できずにいます。この顔だけ見ても5歳程度の子どもの目とはとても思えなくて、しかも現実であるが故に、あまりに悲しいです。

そういう環境でそういう教育を受ければ、そういう人間になる。

そう考えると、AIの学習にもある程度の「基礎」は必要で、それがキリスト教的根底なのか東洋的道徳なのか、クジラを食べていいのか悪いのか、どの「郷」なのかで情報の取捨・正誤が変わってくるはず。専門ではないのでわからないのですが、おそらくほとんどの人間が赤ちゃんから幼児になる間に、ある程度の「基礎」を身につけて(これ「基礎」以外に良い言葉が浮かばない)そこから幼児「教育」、初等「教育」と進んでいくのだと思います。少なくとも僕自身は「なんで人を殺してはいけないの?」という質問を親にしたことはなく、多分ほとんどの人が同じようにそんな質問をすることなくそこそこモノを考えることが出来る小学生くらいにはなっているはずですから。

だからその「基礎」をAIにどのようにして、どの方向で学ばせるのか?というのは大きな課題だと思います。

やはりおそらくミーガンはキリスト教的な主義を持って、AIとしての基礎を作り、そこから教育され学習したはず。ならばやはり良心の概念や犠牲の概念もネットから学んでいるはずです。
要するにミーガンは呪術廻戦のリカちゃんのように「ケイディを守るための殺人」を行うならわかるんだけど、チャッキーやフレディやペニーワイズのように「そもそも中の人が異常殺人者だったから人殺しをする」という思考を持ってないはずなんですよね。その特異点がないから、なんだかモヤモヤするんです。

削られた20分

この映画はもちろん娯楽用として「102分」というコンパクトな作りになっているのですが、こういう筋があったんじゃないかと。もちろん妄想ですが、それならわかるというのを考えました。

おそらく、あのCEOの部下が他社に情報を流した際に「データはもらったけどハード技術が追いつかない」「でもこんなものを売り出されたら我が社は終わりだ」と言われる。で、CEOの部下にミーガン自身にウイルスを侵入させて情報の偏向化と道徳の欠落をさせることでこのプロジェクト自体を崩壊させるという方法を実行させる。当然ネットの中にはヒトラーもホロコーストも肯定するものがあるはずだし、上記「イマド」のように人形の首を切ることに違和感を感じない教育・プログラムもできるはずなので。

こういう要素があれば「ケイディを守る」から「とにかく人殺しをする」に変わっていくこともわかるし、「じゃあどこでウイルスを」というのも「会長の孫がどうしてもミーガンを欲しいと言って、でもミーガンが『登録者』としてケイディを認識しているのでそれを書き換えるためにCEOとその部下が秘密裏に会長の自宅に行く」とかも考えることができます。

もちろん、「理に適う」から映画は面白いものになるのではなくて、特にホラーなんかは「殺し方バリエーション」を楽しむ部分もあるので一概にはいえないんですが、「真っ白な状態からインターネットの無限とも言える情報を全て取り込んだらどの思想を正とするのか?」「人形・機械にとっての宗教の距離、倫理の距離ってどんなものか」という命題を観客に落とすことが出来たのではないかと思うとそこがもったいなく感じるのです。






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