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わかる。わからない。

映画というシングルタスクを達成したご褒美。

岡田斗司夫のYouTubeで「ショーシャンクの空に」の徹底解説をしていました。これはめちゃくちゃ面白いので見た方がいいです。冒頭10分をこれだけ話すのか!って思います。


岡田斗司夫YouTube金ロー「ショーシャンクの空に」冒頭10分徹底解説~最高のカメラワークを読む

さて、その解説の中でラストシーン、小説にないアンディとレッドの海での再会をプロデューサーのニキ・マーヴィンが絶対入れないといけないと言って、監督のフランク・ダラボンが折れてそのシーンを追加した。という話がありました。
「お客さんは2時間映画を見てくれてたんだから、ご褒美がないと絶対ダメだ」と。
これはほんと面白いお話だなーって思います。
確かに2000円とか払って、映画館に他のことが何もできない、スマホ見ることすらできない(もちろんショーシャンク自体は1994年の作品なので当時はスマホというか携帯すら普及してない時期なんですですが)2時間を捧げるわけですから、プロデューサーの「ご褒美」という言葉(英語ではなんと言ったのかが気になる)はわかる気もします。アメリカ人のハッピーエンド好きを象徴しているような気もします。

そもそも2000円払ってシングルタスクの苦行っておかしくね?

そろそろこんな意見が出ても全くおかしくないと思います。
いろんなことをしながら、自分が持っている時間からしてみれば無限と変わらない量の「コンテンツ」と呼ばれるものを月1000円とかその程度で契約できて好きな時間で止めたり止めなかったりしながら他のことをしてということが当たり前の世の中に一気になってしまった訳で、そこで普段三つも四つも同時にやっている「マルチ」を強制的に「シングル」にされる訳ですから、そりゃあ相応の「ご褒美」があっても良いかあというのは人情とも言えますね。でもさて、ハッピーエンドだけがご褒美という訳ではなくて、「あーこの映画見てよかったなー」っていう「ご褒美」は様々あると思います。

わかる、というご褒美

結構重要視されているのは「わかる」というご褒美ではないかと思います。ストーリーが消化できて、自分の中に「スジ」として残る。伏線もちゃんと後で効いてきたりとか、その世界全体が2時間の中に完結している。
「理」「解」「できる」というのはある面喜びでもあります。我々は文字を「読む」ことができるのは学習しているからで「読む」ことで「意味」や「価値」を文字を「書く」人と共有できるからです。
アウトプットした様々な記号を「理」として「解」することは文明活動の中でもかなり初歩的な「共有」という「喜び」で、だから「わかる」ということに関して人は満足感を得ることができるのです。

わからない、ストレス

逆を言うと、「わからない」がストレスになる場合があります。一時話題になった「セブンイレブンのコーヒーメーカー」も、その記号が「わからない」から失敗するストレスにつながった訳で、そもそも共有できない「模様」が果たして「記号」と言えるのか?という問題も孕んだものになります。

でも「わかる」に、神経質になってしまいましたよね

最近に始まった話ではないと思いますが、「わかる」「わかっている」ということに社会的に神経質になっている気がします。
SNSでよく遣われる「マウント」という言葉も「わかっている」人間が「わかっていない」人間を見下す時に出てくることが多いです。ほとんどのことは一度学習するだけなのに「マウント」という「優劣」が発生します。
(これも岡田斗司夫が言ってたことなんですが、最近の学生には先生に対して「知らない知識を言ってマウントしている」と感じる子もいるそうです。ちょっとそこまでくると思考状況が僕には追いつかないところもあります。)

また情報の正誤に関しても「英語のつかい方がおかしい」とか、日本人が別の日本人に指摘する時などに同じ「マウント」が発生します。
そういう正誤に関しては基本的に「答えの多様性」は認められず、「真実はいつもひとつ」のようになるので見ていると若干うんざりします。

で、この二種類の「マウント発生状況」が、
「わかっていない」=「間違い」、「わかる」=「正解」というような「括りの結合」を産んでしまったのではないかと僕は考えています。

映画の「ネタバレ」に関して神経質な人が増えたのは先に「わかっている」ことを言われることが「わかっていない(見ていない)」人のストレスになる面もあるからではないかと思います。


「わかる」以外のご褒美

映画のご褒美の話に戻ります。
おそらく「わかる」以外に映画のご褒美はあります。
で、思うのはそこまで「わかる」が大切なのかということです。

新潮文庫「アンナ・カレーニナ 下巻」第七刷(1976)

これは手元にあった「アンナ・カレーニナ」の背面の解説です。「矜り高いアンナはついに悲惨な鉄道自殺をとげる・・・・」って、さすがに僕でも「いやいやいやー」って思いました。けれどもこれがわかっていても、1500ページを楽しむことができました。
考えてみれば昔の映画の予告編なんて8割くらい内容説明しちゃうし、そもそもシェークスピアの舞台なんて400年以上何万回と上演されているわけですから、正直「わかる」はご褒美の中の一要素でしかない、ということもできます。

要約できる2時間と、達成感

「わかる」をあまりにご褒美として愛でる風潮が大きくなりすぎると、場合によってはそれだけがご褒美だと思ってしまうと、それはそれ、大丈夫なのかな?と、感じてしまいます。
「理解できたスジ」は要約できます。また他の記号にも翻訳できます。
おそらくYouTube動画で「映画ショート解説(だったっけ?見たことないのでわかんないです)」というのが流行ったのも、そうやって「わかる」ご褒美を手軽に早く手に入れるためだからだと思います。

個人的な話、として。

僕は「わからない」と感じる映画も好きです。前に書いた「TAR」ももちろん、「シン・エヴァ」も結構楽しんで見ることができました。「2001年宇宙の旅」や「8 1/2」「惑星ソラリス」も初見ではわからないですよね。でも単純に2時間のご褒美としては面白いと思えました。

で、ふと思ったので引用しておきます。

汚れつちまつた悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れつちまつた悲しみに
今日も風さへ吹きすぎる

汚れつちまつた悲しみは
たとへば狐の革裘
汚れつちまつた悲しみは
小雪のかかつてちぢこまる

汚れつちまつた悲しみは
なにのぞむなくねがふなく
汚れつちまつた悲しみは
倦怠のうちに死を夢む

汚れつちまつた悲しみに
いたいたしくも怖気づき
汚れつちまつた悲しみに
なすところもなく日は暮れる……

中原中也 山羊の歌 汚れつちまつた悲しみに 青空朗読

超有名な詩で、ほとんどの人は何度か聞いたこともあると思いますし、当然日本語として読むこともできる。単語ひとつひとつもほとんど難しいものはないですし。しかし、しかしこれまで書いてきた「理解」、「わかる」と同じに出来るか?と言われると疑わしい気がしています。

僕は「詩」というものは「作者から出てきたもの(作品)」で完成するものではなく「受け手(読者)」が受け取った時に完成する、という自論を持っています。
正直この詩が「感情の吐露」だけであれば、「四行四連」「七五調」「踏韻」というテクニカルな面は必要ない、というか、悲しんでいる時にそれだけ冷静なことができるわけがない、とも思います。でもそれが「読み心地」や「美しい音」を生み出し、また「小雪」の描写が全体としての「風景」を想像させることで寒々しさ、転じて孤独の寂しさ、悲しさを「わかる」もののように感じさせてくれています。

中也と同じ風景も(中也の原風景は山口のはずなのでこの詩ほど雪は積もっていないと思うし)革裘の本物も見たことはない。
けれどもこの意味を技術的な言葉と音が補完し、全体が「受け手」の中で成就する。それが詩だと思うのです。

受け手の中で成就するものであるから、その作品は「読者」の数だけあっていいと思います。もちろんこの詩にも解説があると思いますし(ネットにはいくらでもありました)長谷川泰子や小林秀雄との関係を学べばより精度の高い「わかる」を手に入れることはできると思います。
しかし、精度の高い「わかる」と比べて初読の時に自分の中で「響いてきたもの」が劣ることは全くないと僕は考えています。

誤読オッケーな感じにしてくださいなにとぞ

僕自身は現代の(てかSNSの)先に書いた「わかっていない」=「間違い」、「わかる」=「正解」っていうのに若干疲れているんですよね。
映画だけでなく小説でも何でも自分の中に響いてきたものがあればいいと思っています。実際に生きている中では二人称の「あなた」が考えていることはわからないわけだし、メタ視点もない。人間なんて一貫するわけないんだから「キャラ」が立つというのも幻想かそう見えるための各々のアウトプットの結果でしかない。だから映画自体がわからなくてもその映像を見て、人物を知り、事件を知り、さえすれば、そうしてその中に自分自身の中に響いて解釈できるものがあれば、それが「面白い」になるのではないかと考えています。

実は。

実はこれだけ長々と書いたのは是枝裕和監督の「怪物」を観たからなのです。
映画自体は楽しめました。2時間を捧げただけの満足感を得ることができました。でも、わかりやすすぎる。却ってそれが僕にとっては窮屈でした。

人称の位置の変化によって生まれる誤解、上に書いた「誤読」のようなものがメインプロットの一つになっています。しかしその劇中の誤解、誤読を正確に伝えようとするために、この作品の受け手である観客には情報が非常に正確に狭く単純に与えられる構造になっています。言ってしまえば全く誤読をさせてくれない。

実は誤読をするのって、よくいう「行間」なんですよね。「書いてないこと」の意味や人物や風景があることを感じさせるから、「書いてあること」以上の想像力が生まれ、それが誤読や自分なりの想像やシーンを生んでくれる。けれどもこの「怪物」には行間を感じなかったのです。学校というパブリック空間と家庭というプライベート空間とこどもの世界を全て描いているのだけれども、それが人物も時間も「一貫」していてブレがないからそれ以上の「僕の中での想像」ができなくなってしまう。

「是枝裕和+坂元裕二+川村元気」ということだから「メジャー的大ヒット」の必要があったのだろうなと感じています。だからここまで長々と書いた「わかるご褒美」に注力してしまったのではないか。だから解答を皆がわかる一つに絞ったのではないか、その明快性を主としたのではないかと。

息を飲むくらいに美しいシーンや人物とカメラが交錯するカメラワークとか演者の圧倒的な表現力とか今でも思い出すところは色々あって、決して嫌いな作品ではないのですが、「怪物」は僕の心の外にあって、僕が自由に考えることを許さない「客観的な、解答が決まった出来事」のように感じてしまうのです。

最後に

僕がすごく好きなシーンは窓ガラスを手で拭くところです。何度も拭きながら打ちつける泥と雨に紛れてガラスに触れた手と懐中電灯の灯りしか見えない。
本当にハッとするくらい美しい絵でした。どうやったらあのシーンを思いつくのだろうって思いました。




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