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殺陣(たて)のお話。

アクション映画も好きです。

まあもちろん、アート系であろうと文芸系であろうと1940年代であろうと2020年代であろうと映画は好きです。

今年はこれからも色々公開されるので楽しみで仕方ないところがあります。
で、ジョンウィックも楽しみにしているところ。なんですけどね。
先日他のところに「アクションシーンが現実的で痛い感じになったのって『ボーン・アイデンティティ』からだよね?」って書いたんだけど、自信なくてちょっとボーンを見なおしたりしたんです。「ボーン・アイデンティティ」が2002年で「007・カジノロワイヤル」が2006年、カジノロワイヤルのアクションシーンは確実にボーンの影響を受けた「痛そう」な感じ。まあ「ファイト・クラブ」の方が先じゃない?という見方もあるけど、「殺さないと」という鬼気迫る感じはやはり「ボーン」がやったのかなあ、と、考えております。

まとめて見ちゃったが故の違和感。ごめん。

でもまとめて見てしまうと、ふと違和感を感じたのです。実は同じ違和感を「ジョン・ウイックシリーズ」にも感じてしまったのですよね。これはダニエル007シリーズにも共通しています。見返してしまうと、殺陣(たて)に「予定調和」を感じてしまうんです。

殺陣(たて)について

殺陣(たて)は、演劇映画テレビドラマ俳優が格闘シーン時に素手素足もしくは武器を用いた演技演陣技斗擬斗擬闘とも呼称される。殺陣は主に時代劇、技斗は主に現代劇に用いる[1]

wiki「殺陣」より

まあ西洋では「殺陣」とはもちろん呼ばないんですが、「殺陣」として話を進めます。
実は僕自身は「リアリティラインが高いからエライ」ということは全然考えていなくて、例えばゴーカイジャーやプリキュアの戦闘シーンも全然あって良いと思っているし、「メカ部」が語るファーストガンダムの「殺陣・水入り」の解説も非常に興味深く見ているくらいです。
だから「ボーン」や「ジョン」が悪い、良くない、とは考えていないです。ただリアリティラインを上げれば上げるほど、気になることがあることに気づいたのです。

ちょっと話は変わりますが、居合をやっておりました。というお話。

10年ほど前まで、居合道を学んでおりました。父が範士八段ということもあり、始めたのですが、今はちょっとお仕事が忙しすぎて(言い訳)
で、僕の学んでいたのは居合の中でも「無雙直伝英信流(むそうじきでんえいしんりゅう)」という流派になります。
で、その中でも有名なものだけでも12〜13、おそらくはもっと多くの流派があるはずです。

居合というのは剣術の一つではありますが、どちらかと言うと「一刀目」で勝負をつけるために考え出された技を研ぎ澄まして「型」にしたものになります。チャンバラのように敵の刀とチャキーンチャキーンと打ち合うのではなくて、「一刀目に切るためにどうしたら良いか?」を研究したものになります。鬼平が「こいつ居合をやるな」と言って間を詰めるタイミングを図るのも一般的な剣術と「居合」が別のものとみなされていたからだと思います(鬼平は一刀流)

で、その僕の学んだ宗家(清水寿浩宗家)から、大変興味深いお話を伺ったことがあります。
(清水宗家のインタビューを15年ほど前に載せたものがありますのでまずはそれを載せておきますね)

清水寿浩インタビュー

型にはどうも「裏の型」がある

このインタビューには載ってない話なんですが、宗家の大変興味深い話に、「型にはどうも『裏の型』がある」というのがありました。

僕の行っていた道場では「無外流」の型を「交流」として学ぶこともありました。それで、宗家が仰るには、「無外流の型には英信流よりも早く切る為の型がある」とのこと。
椿三十郎で、居合をやる室戸半兵衛(仲代達矢)にどうしても間に合わない切られちゃう。って三船敏郎がすごい悩んだと言うのを思い出しました。

つまり、居合・剣術の「型」はそれぞれの流派が独自に編み出し発展させただけではなく、他の流派を研究し、「それより早く」を追求していたと考えられます。
おそらく「道場破り」というのも、そうやって「他の型」を学ぶためにあったのではないか?抜いた状態の「構え」から始まる現代の「剣道」はほぼスポーツとして相手の隙と体力を狙うものだけれども、木刀で防具なしで対戦をした頃の「剣術試合」は「抜く」からの速さで勝敗が一刀で決まったはずですし、そこで他流派と自分との違いや優劣を学んだのではないかと。

で、アクション映画に話を戻します。

長々と居合と流派、型について話しました。で、アクション映画における「違和感」ってリアリティが研ぎ澄まされればされるほど、その「殺陣」が「一流派」のものに留まっているからではないかという推論が生まれました。
もちろん「ボーン」が「カリ(フィリピンの格闘技)」であったり「ジョン」が「システマ(ロシア?)」であったりするのは良いのですが、それが映画に登場する味方も敵も同じ流派であると感じてしまうところがあるのです。
同じ組織だったら習った人が同じだから仕方ないところもあるかもしれませんが、敵役も相手が「強いレジェンド」ってわかっていたとすれば他の格闘技、流派から学ぶ必要があるはず。
もちろん「アクション監督」や「殺陣士」がいて、その動きを「振り付ける」のが映画としては当たり前なんだとは思うのだけど(ちなみにハリウッドとかではその振り付けをする人を「アクション・コレオグラファー(Action Creographer)」と呼ぶそうです)、「敵も味方も出てくる人間全員がこの映画では同じ流派、同じ人が考えた振り付け」と一度感じてしまうと(意地悪な感情ではありますが)多少残念な気持ちになるところもあるのです。

そういえばシン・仮面ライダー

シン・仮面ライダーの話をちょっと前に書きました。あのドキュメントで庵野監督が一番怒った最後の戦いのシーン、あれってそういうことだったのではないかな?って思いました。池松 壮亮と柄本 佑と森山 未來が3人で殺陣を考える。3人が戦っているのにアクション監督一人の意志しか感じないと言うことに関して庵野監督は違和感を感じたのではないかと思います。もちろん3人とも岡田准一ほど学んでいるわけではないと思うから相当にしんどかったとは思いますが、確かに「自分だったらどう戦うか」が結果的に生まれたのではないかと思います。

これからのアクション

リアリティを追求していくとこれからは作品としてのアクションの個性ではなく、人物それぞれの個性が見えてくるようなアクションが求められてくるのではないかと感じています。
もちろんそれには「複数人アクション監督を」とかになっていく必要があって、そのアクション監督同士が「俺の方が強え」って言うようになったりして面倒なことにもなりかねないんですが、アクションシーンに複数の個性や型が必要になってくることは避けれれないのではないかと思います。

あ!最後に、色々考えて思い出したこと。

個性のぶつかった「殺陣」を色々考えてみて(もちろん前述「椿三十郎」の三船が考えた切り方もあるけど)色々考えて、その登場人物ごとの個性って言ったら「機動戦士ガンダム」じゃないかというところに行き着きました。

シャアとアムロの動きは初戦から序盤にかけても各々全然違うし、そこからランバラルが出て、その燻銀の戦い方やそこからの「これぞ殺陣!」と言うガンダムの動きも個性同士のぶつかり合いを感じます。
同じセル画上での「動き」を生み出すことはそのままで個性を持っている「人そのもの」の「実写」と比べるとかなり難しいのではないかと思われ、難しいからこそ作画に相当の気遣い、おそらく作画監督だけではない複数人のアイデア出しがあったのではないか?と考えています。
「ラルであればきっとこう戦う」というのと同じように実写の役者がアクションに注文をつけるというのはヒースジョーカー思い出してちょっと危険な気もしますが、なんとなくそういう一人の頭ではないさまざまな個性や他流派の要素が今後のアクション映画には必要になってくるのではないかとと感じているのです。

まあもちろんこれは、アクションだけではなく演技全般に言えることなんではないかとも思うんですけどね。


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