見出し画像

感動とはなんであるか考える。完結編

2000円の価値は充分にありました。

楽しく面白く見れたし、やっぱすごいなあと。もちろん僕は生粋のジブリ駿ファンというわけではないので他の作品に比べてとか言われてもわかんないんですが、正直「これでいいよなあ、これで楽しめるんだから、それだけですごいよなあ」というのが一番の印象です。

ここ何回か、映画の話を多く書いて、そのまとめがこの映画なんじゃないかと思うくらいです。

おそらく「TAR」には「ネタバレ」とかない。
「伏線」も「伏線回収」もない。

もちろんストーリーを全部書いてしまうと「ネタバレ」と言われるのだとは思います。しかし、それを全て書いてみたところで「それで?」という答えしかでないのではないかと。
また前半でのエピソードの積み重ねが後半に効いてくるとか、伏線を張り巡らせてあるとかいう「娯楽としてのわかる満足」を設計した映画でもないと感じています。

「感動」とはなんであるか考える。その2

“わかる、というご褒美 ”
結構重要視されているのは「わかる」というご褒美ではないかと思います。ストーリーが消化できて、自分の中に「スジ」として残る。伏線もちゃんと後で効いてきたりとか、その世界全体が2時間の中に完結している。 「理」「解」「できる」というのはある面喜びでもあります。我々は文字を「読む」ことができるのは学習しているからで「読む」ことで「意味」や「価値」を文字を「書く」人と共有できるからです。 アウトプットした様々な記号を「理」として「解」することは文明活動の中でもかなり初歩的な「共有」という「喜び」で、だから「わかる」ということに関して人は満足感を得ることができるのです。

“わからない、ストレス” 
逆を言うと、「わからない」がストレスになる場合があります。一時話題になった「セブンイレブンのコーヒーメーカー」も、その記号が「わからない」から失敗するストレスにつながった訳で、そもそも共有できない「模様」が果たして「記号」と言えるのか?という問題も孕んだものになります。”

・・・・・・・・・・・・・・・・・
実は誤読をするのって、よくいう「行間」なんですよね。「書いてないこと」の意味や人物や風景があることを感じさせるから、「書いてあること」以上の想像力が生まれ、それが誤読や自分なりの想像やシーンを生んでくれる。

わかる。わからない。

乗り切れない人がいたことについて

わけがわからないままシーンが進む。なんとなくですが「シークエンスが進む」でも「ストーリーが進む」でもない気がします。映像のプロではないので言葉遣い違うかもですがなんとなく。
そういう断片の積み重ね感が「わかる満足」を期待していた観客にはキツイ映画だったのだと思います。

それともう一つ。

“情動と感情と サラッと「情動」と書きましたが。神経学者のアントニオ・ダマシオによると「情動と定義が似ている感情は、高次の機能である」とのこと、要するに(解釈間違っていたらごめんなさい)「情動」とは外的刺激から自律神経に反映される身体反応であり、それが予測や経験により、より高次に認知され判断されたものが「感情」であると考えても良さそうです。最初に書いた「ニューシネマパラダイス」や「夏目友人帳」に対する反応は経験や知識があるからこそ導かれた「感情」であると言ってもいいのではないかと思います。 対するUTAのステージは非常に「情動」に近いのではないかと思います。徐々に引き上げられた興奮の後に圧倒的な情報量が自律神経・脳に刺激を与え、身的反応が起こる。これがUTAのステージで僕が泣いてしまった原因なのではないかと思います。”

「感動」とはなんであるか考える。

これまでの宮崎駿作品では「情動反応」というのを非常に巧みに誘導していたのではないかと思います。
「誘導」と書くとなんか聞こえが悪いですが、バーンと「弾けるシーン」、「宮崎駿が一番見せたいシーン」があって、そのシーンに向かうためにそれまでのシーンを「鬱積」させる、そういう積み重ねを「承」として丁寧に紡ぎ「転」から「結」に一気に持ってくるのがこれまでの「宮崎映画」の手法だったのではないかと。
(最初に書きましたがそれほどたくさん観ているわけではないので異論あるかもしれませんその時は教えてください・・・)

「情動反応」で重要なのは感情の起伏でしてプラス方向への振れ幅を大きくするためにはマイナスも大きくないといけないです。上記「ワンピース・レッド」はその手法を最大限利用しています。だからUTAの歌が始まった時にバーンと自律神経が揺さぶられ、感動した「気がする(もちろん本当に感動している部分もあるのですが)」のです。

しかし今回の宮﨑作品は、敢えてシーンの起伏を作っていない。「このシーンを盛り上げるためのこのシーン」がない。だから情動的にも揺さぶられずモヤモヤしてしまうんだと思います。

乗り切った人、感動した人。

「評価が完全に二つに分かれている」「アート映画としてみればそれが好物の人はムシャムシャ食べられる」と、岡田斗司夫も言ってました。
多分僕が面白いと感じたのは上記・別記事でさんざん言っているように「わからないでも良くない」と言いながらムシャムシャ食べたからだと思います。

でも「なんだかわからないけど感動した」という意見もちょくちょく見かけており、それがなんだかちょっと予想してみました。
熱心なジブリファンのなかではもちろん「7年ぶりに観ることが出来た」「それだけでも嬉しい」という人もたくさんいるのだろうと思いますが、もう一歩そのファンの脳内に踏み込んでみます。

おそらくこの映画の全てのシーンを「これまでの宮崎駿」に直感的に連結した人にとっては紛れもない大感動を生んだのではないかと思います。自身の成長過程においてDVDで「トトロ」みて、金曜ロードショーで「ラピュタ」見て、初めての映画館で「ポニョ」観て、というような体験を呼び起こすスイッチがありとあらゆるところ置いてある。これは宮﨑駿がわざと置いてるわけではなくて、その痕跡が自ずからスイッチになってしまうというものだと思います。

だからこの映画の中だけで繰り広げられる「物語」「起承転結」「シーンの起伏」など必要なく「自分のこれまでの人生とジブリアニメの存在」を混ぜ合わせたものとして「情動」としても「感情」としても作用したのだと思います。

でもこれってやっぱりこの数十年、ジブリアニメをファンとして観てきた人だけが味わえる「感動」なわけで、それが味わえないのはちょっと寂しいかなあと思う自分もいるんですよね。





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?