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撮影にその人のバックボーンはいるか?

こんばんは、フィルムで写真を撮っています小山ひときです。

今回は、作品関連のお話です。
最近急に寒くなりまして、もう少しすると山も街路樹も葉っぱが色づく季節になりますね。私はというと、ようやく先日GUで購入をしたポラロイドのパーカーを着ることができました。KODAK Tシャツもそうですが、満足感が、ありますね。素晴らしい。FOMAPANやFUJIの服も出して欲しいです。

さて、タイトルにある「撮影にその人のバックボーンはいるか?」についてお話したいと思います。あくまでも、これは私の思うところでしてこれが正解だ、こうあるべき、ということではありませんのでご安心ください。

撮影にその人のバックボーンはいるか?

私は、いると思います。その人、というのは撮影者もそうですが撮られる側、ポートレートだと被写体さんということになります。

ものを作るとき、私の場合は自分の生い立ちなどをお話して、相手のお話も伺って、何が嫌いか、何が好きか、何が怖いのか、何が嬉しいのか、どんな子供だったのかなどをお聴きします。これは、人としての関わりというところもそうなのですが、知ることで作品にいい背骨が入るからだと思っています。

”そこにある”には理由がある

自然に落ちた枯葉や木の実を、手で置きなおすと並べた感が出る。そんな体験はないでしょうか?最近気がついたのですが、それは理由があってそこにあるから。そこにあるのが必然なので、置き直したときに違和感が出るのだと感じています。

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その落ち葉には、そこに落ちるまでの環境や理由があって、そのタイミングで落ちていると思います。その場所にその時落ちるには、これまで生きてきて落ちるまでの理由がある。弱い枝だったのかもしれない。それは病気なのか、日当たりが悪かったのか、虫に食われたのか、虫に食われたなら食われやすい状態たとえば木の実の汁がついていたのか、飛んできた虫がそこにいて卵を生んだのか、水分がうまく運ばれなかったのか、運ばれなかったのならそうなる理由がある。

撮影も同じで、その人の人生や生い立ち、背景や考え方を知ると、必然で細かなことが決まってくる。こういうことだから、この場所にした。だからこの色にした。だからそこで手を伸ばした。だからその人の名前を呼んだ。だからそこに立ってもらった。だから数字のネックレスをした。だからこの場所で、彼女はワニにキスをした。


それが細い糸になって繋がるから作品が強くなる

こういうことができたときに、ああ、この作品にはいい背骨が入っている、と私は思います。それが見る人にすべて伝わらなくても良くて。ただ理由があって必然的にそこにあるから、厚みや重みや言葉や音が、あるように感じるのだと思います。少なくとも、私の目にはそう見えて、それが美しいと思います。

鍛えて、勉強して、その自然を自作することもできると思います。
でも、私はそこに重きを置いていないので鍛えなくてもいいやと。そうする時間よりも、関わることで自分の扉のようなものが開くこと、相手にも演技をさせなくて良いこと、わたしや相手や見る方の、なにかの出口や螺旋階段の傾斜の気づきになれたら素敵だなと思います。

そんな特殊なスキルを磨かなくても、そこにある理由を、自分の目とカメラで沢山、みたいなあと思うのです。

だから、いつも。
ああ、ありがとうございます、よかった、と、思います。

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