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ハリウッド版”中小の奇跡”、コロンビア映画の躍進

ミュージカル映画黎明期の映画業界

ミュージカル映画が誕生した1929年。当時は、YouTubeはもちろんのことテレビも存在しない時代でした。そのため、映画に求められる役割は現代とは大きく異なり、テレビの音楽番組お笑い番組ニュース番組、はたまたYouTubeのミュージックビデオの役割まで映画が担っていたのです。特に音楽番組やミュージックビデオ、お笑い番組の役割を担っていたミュージカル映画は当時の映画界の花形ジャンルであり、次々と新作が作られていました。

また映画会社に求められている役割も現代とは大きく異なります。映画会社は、映画監督や振付師、スター(歌手やダンサー、ドラマ俳優、人気スポーツ選手など)と長期契約を結びました。そして自社で抱える巨大な撮影スタジオで映画を次々と製作していったのです。芸能事務所や制作会社が担っていることの全てを映画会社が担っていました。

以上の状況により、人気スターも巨大な撮影スタジオを持たない中小の映画会社は淘汰されていき、ごく少数の巨大映画会社による映画業界の支配が生まれました。これをハリウッド・スタジオ・システムといいます。

そんななか設立当初はコンビーフ&キャベツと呼ばれていた中小スタジオにも関わらず大躍進を遂げ、いわゆる8大映画会社と呼ばれる巨大映画会社の仲間入りを果たした映画会社がありました。コロンビア・ピクチャーズです。そしてこの大躍進を支えたのがコロンビアの独裁的経営者であるハリー・コーンそして、国民的映画監督フランク・キャプラでした。

本日はそんなコロンビア映画の黎明期の歴史について書きたいと思います。

当時の巨大映画会社

フランク・キャプラの話に入る前にほんの少し当時の巨大映画会社の状況を見ていきたいと思います。

パラマウント

パラマウントの看板スターと言えばモーリス・シュヴァリエ。もともとフランスのショービジネス界の大スターだった彼は、1928年から1934年までパラマウントと契約し、ハリウッドでも大スターに。契約期間で、6作の作品に出演しましたがどれも大ヒットしました。

20世紀フォックス

あの誰もが知るマリリン・モンローの最初の契約先である20世紀フォックス。当時国民的な子役だったシャーリー・テンプルの契約先もここ。1933年から7年間契約を結び、タップダンス史における神様的存在であるボージャングルと共演し、数々のヒット作を世に送り出しました。

また、1928年から3大会連続でオリンピック金メダルを獲得したノルウェーのフィギュアスケート選手ソニア・ヘニーの契約先もここ。たどたどしい英語とフィギュアスケートの技術で大人気となりました。

ワーナー・ブラザース

世界初のミュージカル映画『ジャズ・シンガー』を大ヒットさせたワーナー・ブラザーズ、何と言っても1930年代に一世を風靡した振付師バズビー・バークリーの存在が大きいです。彼はただダンスを正面から撮るだけでなく、カメラの位置や動きにも工夫を凝らしました。この当時としては斬新なアイデアがウケて次々と大ヒットを生み出しました。

RKO

1933年から1939年までRKOと契約していたのがフレッド・アステア。マイケル・ジャクソンやジャッキー・チェンに大きな影響を与えたミュージカル映画史上最も偉大なダンサーです。ジンジャー・ロジャースとコンビで数多くの名作を生み出しました。

MGM

星の数より多いスター」というキャッチコピーで知られるMGM。ジュディ・ガーランドジーン・ケリーを始め、水泳の世界記録保持者であったエスター・ウィリアムズ、元シャンゼリゼ・バレエ団のバレリーナレスリー・キャロン、人気コメディアンレッド・スケルトンなどが所属していました。

またフレッド・アステアも1946年以降はMGMと契約しています。

あとチャップリンが設立したユナイテッド・アーティスツ、ドラキュラやフランケンシュタインなどのモンスター映画で名を馳せていたユニバーサルがありました。

フランク・キャプラとの出会い

1924年、コロンビア・ピクチャーズの前進となるCBCという会社のオフィスが開設されました。当時は俗に「貧乏会社通り」と呼ばれる低予算映画会社が並ぶ場所に立つ小さな映画スタジオでしかありませんでした。当然ミュージカル映画製作なんてもってのほか、短編の西部劇を作るようなスタジオだったのです。

そんな中、1927年にフランク・キャプラという映画監督を発掘することになります。

フランク・キャプラは家族と一緒に6才のときイタリアからアメリカに移住しました。工科大学で技術的なことを学んだキャプラは、WW1で職を失った父を支えるべく技術者として映画業界で働くことになります。

業界で技術者として働く中で秘かに映画監督を目指すようになったキャプラは小さなスタジオでギャグ作家として働くようになりました。が、解雇されます。その後もスタジオを転々とする中で、ついに1926年『当たりっ子ハリー』という監督作品がヒットしますが、手柄を横取りされ全く評価されることはなく、転々とする日々が続きます。

ある日、ハリー・コーンという小さな映画スタジオの経営者に声をかけられ、キャプラはコロンビア映画で働くようになりました。当時コロンビアは小さなスタジオであったため、あっという間に監督の地位を手に入れ、たくさんの作品を製作することになります。フランク・キャプラはのびのびと作品を作れる作品の中で試行錯誤を繰り返すなかで才能を開花させていったのです。

キャプラは、バーバラ・スタンウィックというコメディエンヌ・スターにも恵まれ、少しずつ長編の作品も作れるようになりました。

アカデミー賞への挑戦

1929年からはじまる世界大恐慌の中、映画はサイレント映画からトーキー(音声付)映画に移り変わっていました。音響設備への大規模な投資も必要となり製作費が格段に増加した結果、多くの中小スタジオは淘汰されてしまいました。この間に数百あったスタジオは半減したとされています。

そのような世相を反映して製作されたのが『狂乱のアメリカ』(1933)でした。ちょっとした噂が種である銀行で取り付け騒ぎが起きてしまう。その銀行の銀行長が理想と善意に訴えかけ事態を収拾させようとするが、以前から理想主義的な銀行長が気に食わないと感じていた役員に邪魔をされてします。しかし、それでも困難を乗り越え理想と善意で解決するという物語でした。

このように、フランク・キャプラの作品では繰り返し「信念のために闘う高潔なアメリカ人」が描かれます。そしてこの理想主義的な側面がアメリカ人に非常にウケたのでした。

この作品は、世相を反映しており作品自体もとても評判が良く、とてもヒットしたためキャプラ自身はアカデミー賞を期待しましたがノミネートすらされませんでした。中小スタジオのコメディ作家にはアカデミー賞は程遠い存在だったのです。

こうしてキャプラのアカデミー賞への挑戦が始まります。

『或る夜の出来事』の成功

キャプラの次なる作品を製作するためにコロンビアはあの巨大映画会社MGMとパラマウントにスターを誰か貸してくれないかと依頼をします。ヒットするような作品を作るには中小だったコロンビアはあまりにも俳優の数が少なすぎたのです。

それに対しMGMは、『風と共に去りぬ』で破格の大スターとなるクラーク・ゲーブルをコロンビアに貸し出します。理由は当時のMGMの重役がクラーク・ゲーブルに個人的にムカついていて「ムカつくからお前は中小スタジオで映画撮ってこい」とコロンビアの依頼を腹いせに利用したのでした。また、パラマウントはクローデット・コルベールを貸し出す代わりに「撮影期間は4週間で出演料は5万ドル」という無茶な条件を提示しました。なんとこの条件をコロンビアは呑んだのです。

こうして、フランク・キャプラはたった4週間で、しかも俳優へのギャラが高額なため低予算で映画を作らなければならなくなりました。

このような制約下で作られた作品が『或る夜の出来事』です。失業した新聞記者が失踪した令嬢と出会いスクープ狙いで一晩行動を共にすることになるが、一緒にいるうちにお互い恋に落ちてしまうという古典的なラブコメ作品です。

この作品は現代のラブコメの教科書のような作品で、現代ラブコメとして作られている全ての作品が『或る夜の出来事』の影響を受けているといっても過言ではないほどの当時としては革新的なラブコメでした。

結果、本作品は記録的な大ヒットを遂げ、フランク・キャプラはアカデミー監督賞を受賞します。それどころか作品賞含め5部門でアカデミー賞を同時受賞することになりました。これは当時としては史上初めてのことでした。

その後もキャプラは『群衆』や『我が家の楽園』『スミス都へ行く』などの大ヒット作を連発し、コロンビアはメジャー映画会社の仲間入りを果たします。

アメリカの良心としてのキャプラ作品

『我が家の楽園』『スミス都へ行く』ではどちらも主演をジェームズ・スチュアートがつとめました。ジェームズ・スチュアートはこの2作品の中でフランク・キャプラ的な理想主義のアメリカ人を演じることで「アメリカの良心」と呼ばれる国民的な俳優へと変貌を遂げます。

それと同時にフランク・キャプラの映画はアメリカの善なるもの(=民主主義)や良心としてアメリカ国民に受容されていくことになります。

そんな中製作された『群衆』はまさしく象徴的な作品でした。

『群衆』の主人公はただのプー太郎の無職の男性。しかしある日、失業寸前の新聞記者の書いた出鱈目な記事の影響で彼はアメリカの良心を体現する存在としてアメリカ中で祭り上げられることになります。彼は失業したくない新聞記者の要望もあり、社会と戦う善人を演じ続ける羽目になってしまいます。しかし彼自身も演じているうちに次第に理想主義と良心に目ざめ、本気で世界を変えたいと願うようになります。そして実際に彼の「隣人を愛そう」というキャンペーンは全米を巻き込む一大ムーブメントとなりました。そんな彼に忍び寄るのは政治利用をもくろむ汚い政治家でした。しかし、彼は汚い政治家を糾弾してしまいます。政治家は彼を失墜させるためにそもそもの新聞記事が全て出鱈目であったことを暴き立てたのです。結果、彼を祭り上げていた大衆は手のひらを返し主人公に石を投げつけるのでした。

というストーリーで、まさしくフランク・キャプラの置かれていた状況をメタ的に捉えた作品ともいえるものでした。

フランク・キャプラ作品はアメリカだけではなく外国にも強い影響を与えました。ナチス・ドイツにより占領され表現規制が強化されていくフランスにおいて、フランス国民が最後に上映するアメリカ映画に選んだのはフランク・キャプラの映画だったのです。

数週間、検閲で作品が見られなくなるまで上映が続けられ、フランク・キャプラの映画に描かれる良心民主主義の理想を見るためにフランス人は大挙として映画館に押し寄せ映画に熱狂したとされています。

8大映画会社の仲間入りをしたコロンビア

フランク・キャプラという一人の才能によって8大映画会社の仲間入りを果たしたコロンビアは、設立当初は遠い夢だったミュージカル映画の製作も実現させます。

キーパーソンとなるのは、リタ・ヘイワースというメキシコのダンサーでした。コロンビアは映画業界を夢みてアメリカに来たリタ・ヘイワースと契約を交わし、ミュージカル映画を製作するために必要な美人ダンサーを確保することができました。

こうして製作されたのが『踊る結婚式』(1942)です。いかにもな戦中ミュージカル(慰安目的としての要素が大きいという意味で)として製作された『踊る結婚式』はリタ・ヘイワースを大スターへと変貌させ、第二次世界大戦期の兵士たちのセックスシンボルとして人気を博しました。

MGMの看板スターであり『雨に唄えば』の主演ジーン・ケリーの出世作もコロンビアの映画でした。MGMは契約したものの魅力がわからず持てあましていたジーン・ケリーをコロンビアに貸し出します。それをコロンビアは見事にジーン・ケリーの持ち味である独創的な振付能力を引き出すことに成功し、ジーン・ケリーを大スターにしたうえでMGMに返却することができたのでした。それほどまでにコロンビアの実力は大きくなっていたのです。

フランク・キャプラのその後

第二次世界大戦が開始し、フランク・キャプラは軍に志願することになります。それは彼自身の純粋な愛国心によるものでしたが、一方で移民という経歴と彼自身の作品の政治側面の強さから反米思想を持っているのではないかと強く疑われやすい立場にいたため軍に志願しなくてはいけなくなったという側面も大きかったと思われます。こうしてフランク・キャプラはエンタテインメントの表舞台からしばらく退くことになりました。

一方でキャプラは軍での活躍により、チャーチル首相から大英帝国勲位勲章をもらうほどになります。自分が本物のアメリカ人であると何とか証明しようとしていたのです。

1945年、戦争が終わるとフランク・キャプラはコロンビアから去る決断をしました。長年共にコロンビアを成長させてきた傲慢な独裁者であるハリー・コーンと縁を切ったのです。そして「リバティ・フィルム」という会社を立ち上げました。自由に映画を作りたいという意思を込めた命名でした。

キャプラは「リバティ・フィルム」の記念すべき第1作目として巨額の製作費をかけて『素晴らしき哉、人生!』という作品を製作します。(後にアメリカ映画を代表する名作として再評価されることになります)が、当時としては興行収入は散々な結果でした。結果、あっという間にリバティ・フィルムは倒産してしまい、キャプラは映画を作ることができなくなってしまいます。。

コロンビアのその後

コロンビアはフランク・キャプラが去った後も『イージー・ライダー』や『未知との遭遇』『スタンド・バイ・ミー』『アラビアのロレンス』など次々とヒット作を飛ばしていきました。

しかし、日本がバブル景気に沸く1980年代、ウォークマンを作っていた電機メーカーであるソニーに買収されてしまいます。

今アメリカで5大映画会社と言えばディズニー・ソニー・ワーナー・ユニバーサル・パラマウントの5社となっておりその中にコロンビアの文字はないのです。

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