ラブソングは可能? 宇多田ヒカル雑感

元記事:http://blog.livedoor.jp/kozuesug/archives/52332620.html

遅ればせなんですが、例の宇多田ヒカル「ノンバイナリー宣言」について書きたくなりました。

宇多田ヒカル「私はノンバイナリー」告白 ファン「恋愛対象は異性なの?」など混乱も

ノンバイナリという概念自体を批判するとか、宇多田ヒカルさんがノンバイナリではないと決めつけるとか、が目的ではありません。でもね....なんか違和感とか不快感みたいなものを感じてずっとモヤモヤしていました。なぜ自分がそう感じるか?について、そこそこ結論が出たので、それを書きたいんです。

セクシャル・マイノリティって、それなりのデメリットやコストがあるんですよ。良くないことも多くて、解消しなきゃいけないことも多いのですが、立場によってはどうしようもないこともあります。

そういうデメリットやコストを背負う

というのがカミングアウトということでもあるわけです。宣言するのはいいんです。そのコストを求められ、負担を求められたときに、この方はそれをしっかりと「払って」いただけるか?というのをやはり追求したいのです。「差別はよくない」と主張する立場ではなくて「差別される立場」に立てるのか?ということでもあります.....

とはいえ某団体風の「差別者理論」とか持ち出す気は毛頭ないんですよ。

なので、とくに音楽という面で考えたいんです。私もね、性別変更したトランスで性愛がピンとこない「アセクシャル」ですから、ラブソングってめちゃくちゃ苦手です。ラブソングを作ろうなんて思ったこともありませんし、歌っても自分の体験からはかけ離れていて「ウソ臭い」だけなので、歌う気にもなれません。
80年代ってイイ時代だったんですよ。インディーズ系の音楽だと、ラブソングではない歌が大量にありましたし、ラブソングでも極めて屈折していて全然恋に肯定的じゃない?なんて思われるような歌詞とかね。Phew とかラブソングそもそもあったっけ? 原マスミだとラブソングでも捻り過ぎでシュールにしか見えない曲が多いし....早い話「ラブソングだったらユーミン・サザンにでも任せとけ!」でそっちに完全に背を向けて「ニッポンのリアルなうた」を楽しむことができたのでした。いい時代、でしょ?

セクシャル・マイノリティ、ということはこういうことだと思うんですよ。

自分の性や恋に関する感覚が、他人に理解されないことを、デフォルトとして、当然として捉える

怖いですね.....表現することが! 私なら商業的に「皆さんに喜んで頂けるような歌」を提供すること自体が、本当に怖いです。とてもじゃないですが、できませんよ。私が感じることを、あなたは感じないし、あなたが感じることは、私には理解できない。そんなディスコミュニケーションを大前提としてしか、恋というコミュニケーションを語ることができないのです。場合によっては「皆さんがご期待」するような感情を「わからない!」と否定することも必要なのかもしれない。そういう場に立った時に、この方は....それができるんだろうか?

いや私はそれができてほしい、と願うのです。それが私が宇多田ヒカルさんに負っていただきたいと思う「コスト」です。

(「ラブソングであることを否定するようなラブソング」「心情的な理解が完全に不可能で、知的な理解だけが可能なラブソング」「異星人同士の恋を描いたSFラブソング」...いやいや、考えてみれば、そういう「メタなラブソング」というものも、やってみればできるのかも。斬新?)

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