見出し画像

季節の匂い【短編】

生暖かさに戻ってきた湿気と、花や新芽の色付く空気が、仕事終わりの真智子の肺を萎ませた。日が長くなって帰り道が明るいのは嬉しいが、仕事が終わっても憂鬱な気分になること自体に、さらに気が落ちていた。

「どうしたんですか?元気ないですね。」
同じ部署の後輩で、10歳年下の仲野優太は、年末に真智子に告白して以降、好意を隠さなくなった。「仲野君はいい子だし、男性としても素敵だとは思うんだけど、私今は恋愛はいいかなって思ってるの」と、お断りしたのだが、あれからも彼の好意は変わらずあるらしい。とはいえ、陰湿に付きまとうわけではなく、仕事中は以前より熱心に取り組んでいて、感心やら可愛いやらで、たまに一緒に帰るくらいのこの距離感は、真智子にとって心地よくなっていた。だから少し、漏らしてしまった。

「春、嫌いなの。」
「花粉症とかですか?」
「うん。」
「でもそれだけだったらわざわざそんな言い方しないなぁ。」

あぁ、言ってしまった。そう思った真智子を気が利かない返答で安心させたのも束の間、優太は頭を切らした。
優太が真智子のことをもっと知りたいと思っていることを、真智子はわかっていたし、なんなら少し、彼ならわかってもらってもいいかもしれないという期待が、春嫌いを告白させたことも、自分自身で気づいていた。

「…前の旦那と正式に離婚したのは夏なんだけど、春がいちばん大変だったの。その、気持ちが忙しくて。」
「それで、春が嫌いなんですか?」
「もう10年も前のことだし、気にはしてないんだけどね。なんか、昔から良くないことが起きるのが決まって春なのよ、私。」

歳を重ねればこんなこともあるもんだと笑って誤魔化してみたが、そんな仕草をすればするほど、“後輩の前で面倒な女”をやっている気がして、真智子の目は伏せていった。

「…真智子さんって、優しいっすね。」
「え?」
「僕が真智子さんの立場だったら、前の旦那さんのせいにしちゃいますよ。季節のせいにするって思いつかないっていうか」
「別に離婚はお互い様だったし、彼が100悪かったわけじゃないからね。でも、匂いで思い出しちゃうのよ、『あの時辛かったなー』って」

本当に辛い気持ちが胸の中で再生されて、じんわりと沁みた。ああ、本当に面倒だ。ここまでさらけ出すつもりはなかったのにな。いや、むしろこれで面倒だなって嫌ってもらって方が、彼のためかもしれないな。

「じゃあ、僕が今からカッコつけるんで、明日からはバカな後輩のことも思い出してくれます?」
「なにそれ」
「春とはいえ、今晩は少し冷えますね。」

真智子の右手は大きくて熱い右手にギュッと握られた。
やっぱりこいつ、若いし馬鹿だな。そう思えて真智子はなんだかホッとした。

「俺は春好きです。真智子さんが嫌う分まで好きでいます。真智子さんが、過去や誰かを憎まずにいられるのは春があってくれるからなんで。」

ホッとしたのを返してくれ馬鹿。
心臓の弾みとともに、さっきまで鬱々と私の中を流れていた春が少しだけふんわり広がった。

「優太君、夜ご飯と…彼女、まだよね?」
「え?!あ、はい。俺、まだ真智子さんのこと」
「ちょっといいお店行こっか。」
「あ、え、俺手持ちが…」
「お礼とお祝い!私たち二人の」

痛いくらいに強く握られていた手の力が抜けた隙に、真智子は恋人繋ぎに変えた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?