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【すずめの戸締まり批評】いつか失うあなたへ、私へ。【5144文字】

 『すずめの戸締まり』視聴しました。
今作はとても強い特定の方向へのメッセージ性を孕んでおり、何の前情報無く視聴したとしても成人した日本人ならば恐らくすべての人が「あぁ、アレについての話か……」となる事でしょう(私はそうでした)。
そして私はその"特定の方向"に向けられた拡声器の外側に居た人間、わかりやすく言えば当事者では無いしその他大きな被災の経験もありません。
そんな私が「これは当事者達にはどう映るんだろう、どう思うんだろう」のような想像を働かせ、現地と被災者へのお気持ちを、たまたま揺れなかった足場から、たまたま壊れなかった机から綴る事も勿論可能ですが、それは作品にフォーカスを当てた見方では無く作品という機会を使って震災にフォーカスしているに過ぎないし、実際どう映ったかどう思ったかは当事者がいくらでも実感と痛みを伴って語ってくれる事でしょう。
そういう見方が悪いとは思っていませんが、作者の意図がどうだろうと自分がそれをやろうとは思いませんでした。

ではこの記事では何を語るのか。
今回は、「非被災者という立ち位置だから、まだ失った者ではないから言える事」という観点を軸にして語っていきたいと思います。
なので多少、傲慢であったり配慮に欠けた言い分に見えてしまうかもしれません。そうであったらごめんなさい。

 本題に入る前に、私の記事では毎度の事ですが本作においても「映画から得られる情報のみ」を取り扱います。
同タイトルの別媒体やら監督のインタビューやらは批評には反映させません。
批評ポリシーは以下から。

ネタバレは全開なのでご注意ください。
あと各引用のセリフがちょっと正確ではないかもしれません。ご容赦ください。


絶望という不公平な平等

 本作では絶望のシンボルに"被災"というとてもシンプルでわかりやすいものがあてがわれています。
居住を、肉親を、場合によっては自分の身体や機能を一瞬で消失させうるもので、そして生き長らえたとしても被災者としての立場や感情、記憶が下手をすれば本当に一生付いて回るのでしょう。
しかもそれが起こるなんて本人たちは予期が出来ない。更に本作の鈴芽のように幼い頃に被災してしまう人も居れば一生大きな被災をしない人も居る。余りにも御し難く理不尽であると、そう思ってしまいますよね。
御し難い。そう、御し難いのです。それは地震のような災害がではありません。“私達自身“が余りにも御し難い。
大規模の地震なんてものが無くたって、居住が、肉親が、自分の身体や機能が失われる要因はそこらかしこに存在します。事故でも事件でも偶然でも故意でも失われる。
そしてそれは数十年後か、数分後か、明日か、瞬きの後か。ひとつずつ失くすのか一度に失くしてしまうのか。何もわからない。何も選べない。とにかく失う事だけが確定している。

生きるか死ぬかは運だと思って生きてきましたから。

『すずめの戸締まり』/岩戸鈴芽

そう、運なのです。
今なのかいつかなのか、全てなのか1つなのかの全部が運。
絶望は、運。

作中に出てきた鈴芽を始め、被災した人々は自分が起こした因果でそうなっているわけではないし、であれば少しズルい言い方をさせて貰うと被災者とそうでない人の違いというのは被災したかどうかでしかありません。
何が言いたいかというと、これは対岸の火事などではなく“失う“という事においてそうでない人の延長線上に彼らは居るという事です。

 被災者と非被災者が地続きの存在である事が確認出来たのであれば、幼き被災者であった鈴芽がそれでも絶望の先で歩みを進めようと思えた理由についてもある程度非被災者に適用する事が可能なのではないでしょうか。
いつか全てを失う私は、あなたは、その中で何を希望に歩いていけばいいのかを、本作で鈴芽が成した事から確認していきましょう。

『光の中に生きていく』という事

 鈴芽が明確に被災とその過去を受け入れたシーンというと、やはり常世で鈴芽(幼)と会話をした所でしょう。
常世で鈴芽(幼)と出会った鈴芽が絶望の中を彷徨う彼女を励まさんと言葉をかけていましたが、最初は届いていないようでした。
それはきっと被災から10年以上生きてきた鈴芽でさえもまだこの時点では、目の前の幼い自分が持っている絶望を消化しきれておらず、同じく絶望を抱えたままの立場からの言葉だったからでしょう。
母親はもう居ないんだと悟りつつもその現実を認められない鈴芽(幼)を前にして「お母さん、どうすればいいの……?」と弱音を吐いた事、絵日記の3月11日の記録を見て言葉にならない嗚咽を漏らしながら大粒の涙を流していた事。それがその証左に思えます。

ですがその直後、母親に作って貰った三本足の椅子を見て紡いだ言葉が鈴芽(幼)に届きます。

今はどんなに悲しくてもね、鈴芽はこの先、ちゃんと大きくなるの。

だから心配しないで。未来なんて怖くない。

あなたはこれからも誰かを大好きになるし、あなたを大好きになってくれる誰かとも、たくさん出会う。

今は真っ暗闇に思えるかもしれないけれど、いつか必ず朝が来る。朝が来て、また夜が来て、それを何度も繰り返して、あなたは光の中で大人になっていく。

必ずそうなるの。それはちゃんと、決まっていることなの。

『すずめの戸締まり』/岩戸鈴芽

三本足の椅子。
それは鈴芽にとってただの椅子では無く、もっと言えばただの母親の形見でもありません。
一心に愛してくれたお母さんの気持ちそのものとも言える椅子で、今回の旅を通して椅子となってしまった草太への色んな気持ちも乗った椅子……だけでもありません。
鈴芽は物語の中でこの椅子(草太)と共に、“地震“という彼女の中の絶望の象徴である災害を食い止める旅をしてきました。それは彼女の中で「自分と同じような絶望を抱える人を生まない」という、それこそ口にして行動にしていたように本当に命をかけても構わないような大きな大きな意義を持ったものだったと思います(その事に中盤まで我々は気づけない構図でしたが)。
そしてその意義ある旅の中でたくさんの人を助け、助けられ、利害を越えた交流を、気持ちの交流をたくさんしてきました。
言ってしまえばこの椅子は、今鈴芽がここに居る事を決定づけてくれているたくさんのたくさんの気持ちの、まさに「誰かを大好きになってきたし大好きになってくれる誰かともたくさん出会いながら朝と夜を繰り返してきた事」の象徴なのです。
誰かを愛した事、誰かに愛されていた事、そしてそれに自分自身が気づき実感として得る事が、失ってしまった者を癒すひとつの大きな手段である事を鈴芽は示したように思いました。

「もう少し言い方考えたら?」
「どれだけ迷惑かわからないのかな……」
「どうしてこんな事言うんだろう」

そう言いたくなる瞬間がたくさんあります。

でもあなたを愛する人も必ずいます。社会に、身近に、インターネット上に、確かにいます。

なんならもしかしたらそれはこの記事を書いている私かもしれません。

だから邪な気持ちが横たわる時は思い出してください。

誰かがあなたを愛しているんだという気持ちで心を満たしてみてください。

あなたがそんな邪な気持ちに呑み込まれる事は絶対にありません。

ネスがギーグを討ち倒せたように。

『誰かがあなたを愛している事を、どうか思い出して欲しい』


 この実感の事を鈴芽は“光“と表現しています。光の中で大人になっていくのだと。
光というのがこれまで出会ってきた人達との交流を指している事が確認出来たのであれば、光とは1つの大きな気持ちではなくたくさんの小さな気持ちが集まったものだと想像出来るでしょう。
絶望から人を救うのが光で、その光はたくさんの気持ちの交流から出来ている。であれば、いつか何かを失う大切な人の為にも、そして勿論自分の為にも、あるいは知らない人の為にもひとつの光足らんとする努力が我々を絶望から救うと言えるでしょう。


 そして本作を参考にするのならば、気持ちの交流をして光となるには言葉だけでは足りません。
というのも、本作で言葉は、言葉だけでは交流においてほとんど重要な意味を持たないものとして描かれています。
先ほど挙げた椅子を介す前の鈴芽から鈴芽(幼)への言葉もそう。
鈴芽は叔母の環に「うちの子になりな」と言われたのをずっと胸に秘めていたが、環は「そんなの覚えてない」と一蹴したのもそう。
逆にダイジンと初めて会った時鈴芽は「うちの子になる?」と言ったが、物語中盤でダイジンを無下にするのもそう(彼女も自分の言葉を覚えていないか別段思いを込めて言ったわけではない)。
なんなら鈴芽や我々がダイジンは悪者だと誤解したのも、気持ちを全く考えず事実のみを伝えるその飾らなさ過ぎる言葉によるものでしょう。
鈴芽を心配する環に何を言っても納得してくれないのも、言ってしまえば言葉だけでは意味を持たないからでしょう。
言葉なんて不確かなものは……そんな事を言いたくなるのが本作の言葉というものでした。

 このように言葉だけではなくその言葉や感情を思い起こせる形を伴なった何かがなければならないという事が本作では示されており、我々が行っていくべき事なのでしょう。そこには被災も何も関係ありません。
気持ちの交流をして、愛して、愛されて、言葉だけじゃなくて、「行ってきます」だけじゃなくて、気持ちを込めた何かを残していく。そうやって。
いつか何かを失うあなたへ、誰かへ、私へ。光たれ!
視聴後に鈴芽の尋常ならざる行動力を振り返ると、彼女の無意識のそんな声が聞こえてくる気がしました。


愛する人に何を残してもらっていますか?
愛する人に何か残せていますか?


おわり

おわりです。
少し愚痴のようになりますが、今作ほど自分の批評ポリシーが足枷に感じた事はありませんでした。
自分の批評ポリシーとして現実の地震や被災者とリンクさせたものは書きたくない、でもそれはそれでそれこそ畏みが足りていないとも思う。つまり誰かへの配慮とかではなく“自分の気持ちとして“現実にあった大震災とリンクさせたい気持ちとそうでない気持ちが混在しており苦心しました。
気持ちの面でどちらもあるなら最終的には別の要素で決定しようという事で、“現実の大震災の事をテーマにした作品に対してそれを引き出しにしない批評“の方が面白いのかなあと思ったのでリンクさせずに書きました。
しかし正直今作は自分の中で昇華しきれていない部分があるというか、例えば『天気の子』で描かれた穂高の“意義と選択“のような、『秒速5センチメートル』で描かれた“絶対的な幸福の証明“のような大きなカタルシスを感じなかったというのが本音なので記事の内容もぼんやりやんわりになってしまった気がします。
「確かにそう生きていくのはとてもとても素敵な事だよね」で止まってしまうというか。

それだけ当事者性の高い作品という事なんですかね。
ただそういう視点で観てしまうとどうしても主要キャラクター達が「震災の話の為に用意された駒」感が拭えないし(鈴芽が草太に惹かれた理由とかがよくわからなかったのも手伝っているかも)、作品という概念に内包されている唯一性みたいなものが損なわれちゃいそうです。それはそれで「震災を切っ掛けに自己ではなくその立場を生きてしまうキャラクター」として捉える事も出来ますが、うーんどうなんだろう。

 しかし今作にも「ここが!!」というポイントは個人的にあります。
何よりまず鈴芽ちゃんがめちゃくちゃ魅力的だなーと思いました。
草太に対しての気持ちを一目惚れだとするとちょっと惚れっぽ過ぎたり向こう見ず過ぎる所もあるけど、目の前の何かにまっしぐらな女の子は本当にかわいい!
表情もコロコロ変わるし、ポニテ似合うし(?)、今までの同監督の作品のヒロイン達とはまた違ったハツラツとした魅力みたいのが素敵だったし、鈴芽(幼)に伝えた言葉を自分でも意識した後……つまり視聴者には知りようがないこの先の人生でもっと素敵な人になっていくんだろうな~となんかワクワクしていました。
草太も顔が好みの男だったし、芹澤くんもなんだかんだ好みだし、よかったなあ。なんか今作はその辺りのキャラクター外形整備に力が入っていた気がしますね。良くも悪くも。

色んな思いが渦巻く作品と当記事ですが、また機会があったら観たいしその時にはこの記事を振り返って「ここ!もっと掘り下げろよ!!!」と絶叫出来るようになっているといいなあと思います。
正直消化不良な所もあるのでいつかリベンジ批評したい!!

ともあれ件の震災を引き出しにしないすずめの戸締まり批評、ここまで読んで頂いた方が楽しめていたら、そして何か得るものがあれば幸いです。


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