表舞台に上がる人への眼差し

数年前、とあるきっかけで好きになったYoutuberグループがいる。それまでYoutuberという存在を知りもせず忌み嫌っていた側だったのに、あれよあれよという間にハマって、それから今に至るまで毎日欠かさず見ていた。彼らは最近、10周年を迎えた。このまま人気者への道を駆け上がるのだろうと思っていた矢先、とあることで騒動が巻き起こった。

それが起こってから、動画はアップロードされなくなった。

僕はこの騒動について自分なりにも考えたけれど、それをここで言うのはお門違いだと思う。当事者でもない、ステークホルダーでもない僕が何かを言うのは、あまりにも無責任すぎる。だから、この騒動についてはコメントしない。されども、僕の中で表舞台に上がる人への見方が変わったのは、事実だった。

僕は一時期、メディア業界に触れていたことがある。書籍を出版したり、テレビにも出演したり、オファーを受けていたことがあった。僕は何か害を被ったわけではないけれど、薄らとその感じは受け取っていた。特にテレビといった「映像で人が人を楽しませる業界」において、その空気は世間とは違う華麗で過酷で異様な何かが、まとわりついている気がした。僕はそれを良いとも悪いとも言わない。往々にして、その業界だけの空気というのはどこにいっても存在するものだし、でも僕は何となくだけれども、底知れぬ不安定さから滲み出る怖さを感じたのは事実だった。才能も努力も運も実力も必要な世界というのは、夢を見させる世界であると同時に、現実を突きつける世界でもある。二律背反のような、そういう不文律がきっとあるのだろう。

少し前の僕の推しは、韓国のアイドルグループのとある男性だった。少し前といってはいるが、未だに僕のスマホのロック画面とケースに挟んだトレカは彼だ。一方で今の推しは、まだ売れていないとある芸人の男性だ。M-1グランプリは2回戦で敗退した。彼らに共通しているのは、表舞台に上がる人だという点で、アイドルはアイドルとして、芸人は芸人として、人を楽しませるということに変わりはない。

「僕の推しは、本当に大丈夫だろうか」

Youtuberの騒動について考えてから、僕は推しに対してそんなことを思うようになった。仕事だの何だので忙しくなって以来、推しの活動なんてこれっぽっちも追いかけられてもいない。アイドルの推しはもう何が起こっているのか知らないし、何なら僕の母親の方がよく知っている。芸人の推しはX上で何となく知ってはいるが、最近あったライブの配信は見るどころかチケットすらまだ買っていない。見よう、買おう、としていたら、あっという間に時は過ぎ去っていた。

推しの活動で、僕は楽しむという幸せを持っていた。楽しませる側ではなく、楽しむ側の人間として生きてきた。もちろん、メディア業界に触れていた一時期は楽しませる側だったのかもしれないが、そんなことは全く意識しておらず、勝手に僕の情報を受け取った側の人間が楽しんでいたという感覚に近く、現に僕は今は、楽しむ側の人間であって素直に楽しめばいいのに、楽しませる側の人間のことを考えるようになっていた。

「嫌な思いはしていないだろうか」
「体調は安定しているだろうか」
「ストレスでしんどくないだろうか」

そんなことばかりを考えてしまって、楽しむって何だっけ、と悲しい疑問を持つようになってしまった。Youtuberの彼らがいつ復帰するのかも分からない、仮に復帰したとしても僕は今までと同じような気持ちで動画を見られる日はもう来ないのかもしれない。アイドルの推しが輝いていても、芸人の推しが笑いを掻っ攫っていても、その背景にはどんなことがあったのか、彼らが本当に心からの想いで活動できているのかどうか、それを僕が楽しむことによって彼らを傷つけないだろうか、そんなことばかりが頭をよぎるのだ。

でも、楽しむ側の人間がそのような気持ちを持つのは、表舞台に上がる人間に失礼なのではないか、とも思う。楽しませる側の人間が与えるコンテンツを、真正面から余計なことを考えずに受け取って楽しむ、それが本当は良いのかもしれない。でも、僕にはそれができるのだろうか。ずっとずっと、自信はなくなっていく。

ただどんなことを思っていても、Youtuberのことも、アイドルの推しのことも、芸人の推しのことも、僕は好きでそれだけは変わらないよ、ということは言い続けたい。

頂いたお金は、アプリ「cotonoha」の運営に使わせて頂きます。