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理想原子

化学とか、なくなればいいのに。

お昼ご飯が終わった午後の最初の5時限目、私はほぼ真っ白といっても過言ではない薄っぺらなノートと、新品にほど近い教科書を机の上に出し、その上に腕を投げ出して、耳を机にピタリとつけた。

化学の時間は嫌いだった。そもそも元素記号を覚えることが無理だったし、化学式を覚えることはもっと無理だったし、想像も出来ないような小さな原子とやらを頭の中で思考するのは、私に全然向いていない。酸素がOで炭素がCで、それが軽いとか重いとか、正直なところ何一つ共感が出来ない。

そのくせ、計算式が入り混じる問題は大好きだった。数字を見ているとスッと考えていることが整理されていくし、文系の科目も嫌いではなかった。成績は良い方だと思う。化学だって得意な単元に当たれば90点台後半にはもっていけたし、数学や物理に関してはほとんど100点に近いくらいだった。国語や英語もそれなりに80点台後半くらい、この間の個人面談では「貴方は理系ね」と担任の先生に言われた。理系に進むと化学の壁にぶち当たることくらい、分かっていたのに。

進級しても私の化学嫌いは直らないまま、いわゆる進学校の特進クラスに所属してしまった私は、ホームルームで新しく着任してきた化学の先生を紹介され、化学の話だと知った瞬間、いつもと同じように机に突っ伏していた。先生の名前も年齢も聞いていなかったが、卒業した大学と専攻が私の志望と合致していたことだけ、私は理解していた。先生が何故、化学専攻でもないのに化学の先生になったのかは不思議であったが、私はむくりと起き上がり、白衣を着て猫背気味の先生の顔を見た。よく言えば無造作ヘア、悪く言えば寝癖、色は白く頼りない感じ、「モテるんだろうな」くらいの一言に尽きた。

新学期が始まって最初の化学の時間、私は窓際の暖かな陽射しを浴びながら、欠伸混じりに先生の話を聞いていた。それが思いの外に面白く、時折生徒を指して問題を答えさせ、授業のスピード感が私に合っていたのかもしれない。一見、その授業に関係なさそうな単元の話まで深く掘り下げ、私が指された時に問われた話は明らかに偏差値70以上の大学入試問題で、運良く私はその問題を知っていたので答えられたが、正答を述べた私に先生は目を丸くし、そして笑って拍手をした。

放課後、図書館に籠るのが好きな私は、吹奏楽部の音色を聴きながらいつものように問題を解いていた。ご機嫌に数学の入試問題を解いていると、不意に背後から私の名前を呼ぶ声がした。振り返るとそこにいたのは、化学の先生だった。

「いつも勉強してるの?」
「はい」
「今日の質問、よく答えられたね」
「たまたま知っていたので…」

先生が私に話しかけた意図が見えず、私は適当に話を合わせた。向かいに座った先生は、私の勉強を邪魔していることを気にもせず、淡々と私と会話を続けた。担任の先生と共有されていたのか、先生は私の志望が先生の出身と同じことを知っていて、私は化学を嫌いだということも知っていた。筒抜けすぎて、担任の先生を少し呪った。

「さて、ここで問題です」

先生は私の方を見て、その純粋そうな瞳を向けた。

「僕は、君と会ったことがあります」

突然先生は笑みを浮かべ、私はその意味が全く分からないまま、口を開けていた。そんな問題、入試にも出てこないし、今まで解いたこともない。新人の化学の先生と過去に会ったことがあるだなんて、そういうの聞いてない。

「僕の名前、覚えてる?」

聞いてなさそうだったから、と先生はため息混じりに笑い、それから首から下げた教員のネームホルダーを私に見せた。書かれていた名前に、見覚えがあった。それは明らかに10年以上も前の話、あれは私が

「君が小1のときで、僕が小6だったとき」

そう、それは私の

「多分、君の、初恋相手」

私の通っていた小学校では、異年齢交流という制度が設けられており、小1と小6、小2と小4、小3と小5がペアを組み、さまざまな行事に参加することになっていたのだが、当時の私のペアの相手は、確かにこの先生の名前の男の子で、そして何も知らなかった私は7歳になったとき、小学校を卒業する12歳の相手に、恥を忍ばず「初恋として告白」をしたのだった。そう、10年以上経って偶然の再会をしてしまったわけで、私はそれを理解するのに10秒ほどかかってしまった。よく見れば、小6の面影が残っていた。少し垂れた目つきとか、優しそうな面持ちとか、ふわりとした姿勢とか、私があの時恋をした、れっきとした相手であった。それはもう、まごうことなき。

「君の名前を見て、君がここで勉強しているって聞いて」

先生はまたしても笑い、私は呆気に取られながら、片手にしていたシャープペンシルを置いた。段々と心拍数が上がっていき、顔が赤くなっていくのが分かる。思えば、あれから一度も恋をしたことがなかった。正直に言えば、小1の恋心が消されることはなく、時間が経つたびに美化されていく思い出に、現実が勝つことなんてなかったのだ。気づけばもう女子高生は終わるのに、何だかこれって運命的だと思えてしまう。科学的根拠が何一つないものは嫌いなタチだが、こればかりはそうだと信じてしまう。この高揚感は一体何か。解けない問題に絡まれているような感情に突き落とされる。どうしようもない時間に擬え、私は口を開く。

「忘れられなかったんです、実は」

おずおずと述べた私に、先生は「僕も、そう」と目を逸らしながら言った。あの時、私が言われた言葉。確かそれは、まだ幼かった私を傷つけまいと考えられたであろうガラス細工のような繊細な台詞だった。今でもそれは有効なのだろうか。私がそう聞くことを遮るように、先生はそっと、私にしか聞こえない小さな声で、そっと囁いた。

「大人になるまで、待ってる」

理想原子

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