見出し画像

支援者というには烏滸がましいけど

有料記事ばかりを書いていると虚像の反感を買っている気がするので、たまには普通の無料記事も書いてみようと思う。かくいう有料記事はどちらかというと、今の僕の思考や葛藤をそのまま源泉掛け流しでお送りしているだけなのであり、何ならこの記事の方が情報量は勝るかもしれないが。

僕は障害を持つまたは障害を持つ可能性がある児童に対する支援をする仕事をしている。今年で5年目だ。保育士を取り、通信制大学の心理系の学部を卒業し、別の通信制大学の社会福祉系の学部を卒業し、社会福祉士を取り、昨年転職するまではとある事業所の管理者兼心理指導担当職員として勤務していた。

転職後は似たような事業をする会社で社内SEの仕事をしている。そのため毎日児童と顔を合わせることはなくなったが、転職後の職場には副業として申請した上で、前職場と業務委託契約を結び、月2回程度は児童の支援や保護者の面談、職員への助言をしている。

現職場は本業なので普通に週5日働き、2週に1回は週6日働く、そんな日々を続けて1年が経とうとしている。本業はデスクワークでプログラミングやシステム設計、ちょっとした企画提案など、体力よりも知力が必要だ。副業も児童とは個別に関わる支援のため、走り回ることはほとんどなく、むしろ学習支援や社会的スキルや実行機能のトレーニングなど、体力よりも圧倒的に知力を使う。

加えて休日は資格試験や通信教育、今秋入学した通信制大学の勉強、興味のある分野の本や冊子、ブログの記事を読み漁り、思考したものを定期的にXやnoteに投稿する。言語にまみれて生きている。体力もつけたいなと思って15〜30分程度の筋トレ、10分程度の瞑想なども取り入れて、一体どこに向かうのか。

自分で自分を立たせるようになってから、色んなことを考え始めた。認知行動療法のアプリで毎朝晩自分をモニタリングして、体調が乱れた時のリカバリーに力を注いだ。そのせいか、支援する児童の話を聞いた時、本人への解像度がグンと上がった気がする。つまるところ思考を言語化する機会が増えたので、相手の言いたいことを要約して確認する力が鍛えられ、児童との対話が以前よりも遥かにスムーズにいくようになったのである。

「継続が一旦中断されると、全部パーになったように感じるんだよ」

1年以上担当している児童が僕に言った言葉だ。本人がとあることを継続して頑張っていたのだが、どうしようもない事情で中断されてしまい、それまで頑張っていたのが全て無価値になった、ということであった。

すごく分かる。ダイエットとか最初の数日は頑張るけど、1回やらなくなったら2度とやらなくなるし、何も意味がないと思うのも理解できる。勉強でも仕事でも何でも、やりたくないけどやらなければならないことを続けるのはしんどい。でも、続けていたら価値を見出してきて、調子が出てきたところで中断されてしまったら、途端に価値が失くなってしまう。おそらくこれは、継続に価値を置いていることが原因であって、だからこそ継続がなくなった瞬間に価値もなくなるのである。

でも、継続した過去が消えるわけではない。

勉強した時に進めた課題の筆跡が綺麗さっぱりなくなるわけでもなければ、仕事した時に進めたタスクも進捗が綺麗さっぱり消えるわけでもない。継続という事実はなくなるけれど、継続するために頑張った記録や証拠や能力は消え失せないし、決してなかったことにはならない。ただ、継続を目指して頑張ったという確かな事実はそこにはっきりと残るのだ。

それでもどうしても継続が中断されると全てが無価値に思える、頑張っても誰も褒めてくれないという目の前の児童に、僕はこう言った。

「俺がその分全部褒めるよ」「だから次会った時もこうして俺に君の話を聞かせてほしい」

僕は児童を褒めるのがあまり上手ではないと思う。お世辞をいうのも苦手だし、褒めるためのボキャブラリーも少ない。でも、僕は児童のことをよく観察し、成長の欠片を見つけたいと思っている。その心意気は誰よりも強くあろうと意識している。

だからこそ、認めるのだ。児童が何をできたのか、何を頑張ったのか。「すごいね」「上手だね」「かっこいいね」という平易な言葉は、児童が成長するにつれて響かなくなる。それは抽象的で、あまりにも伝わりづらく意味をなさないことがあるからだ。だから僕は代わりに認めるのだ。できたこと、できなかったこと、チャレンジしたこと、できるようになったこと、頑張っていること、あと一歩であること。成長途中の児童にとって認めるということは、現状の段階を言語化して伝えるということ、それは児童にとっての成長するためのヒントになるのだ。

「俺がその分褒めるよ」と言った時、現にその支援中に僕は一言も褒め言葉のような褒め言葉を発しなかった。でも、「これはできてるよ」「ここまで頑張ったんだね」「ここに気づけたんだね」と、今の状態を伝える言葉を多用した。そこで児童ははたと気づくのだ。「そうか、自分はそれをちゃんと頑張ったのだ」「以前よりもここが成長したのか」と。

例え継続ができなくても、継続するために頑張った過去は誰でもなく、頑張った人だけのものだ。児童本人が無価値だと認識しても、僕はそう思わないし、僕にとって児童本人の継続に向けて頑張った過去には価値があると認め、事実として伝え続ける。

このような完璧主義や白黒思考というありがちな認知の方法を矯正するのは難しい。僕は認知行動療法を始めてこの考え方を知ったし、今でも自分に対しては適用するのに戸惑うこともある。でも、せめて目の前の児童がそんな思考の森を彷徨っているのを見かけたら、辛抱強く懐中電灯で、児童が望むより良い未来が待つ方向へと照らしたいと思うのだ。

児童の話を聞くこと、大人の感情で否定をしないこと、児童の考えに寄り添うこと、そしてずっと成長を認めて支えること。何を思い、何を考え、どうしたいのか、大人の都合は一旦置いておいて、児童が自分で納得して未来を選択できるように、素材を用意しておく。

児童には児童の数だけ支援の形がある。でも僕がこの仕事で大事にしたいのは、どんなに小さな子どもでも対等な関係を築き、話を聞いてあげるのではなく聞かせてもらうという姿勢で、同じ方向を見て伴走をする、そういう真摯さなのだろう。

担当の児童が帰る時は必ず玄関先まで見送り、「気をつけてね」と声をかける。「来てくれてありがとう」「今日も会えて嬉しかった」と言葉を紡ぐ。児童を支援するのは本当に難しい。でも、児童が大人になった時、「あの時の先生の名前覚えてないけど、何か悪くない時間だったな」と思ってくれたら嬉しいなあと思う。

頂いたお金は、アプリ「cotonoha」の運営に使わせて頂きます。