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誰かになりたいと思わなくなった


最近、研修やら勉強会やら色んな機会で自分について話すことが多くて、そういうのは本来はあまり得意ではないのだけれど、こうも続くとさすがに少しは慣れてくる。

ある勉強会で、一対一で相手と決められたテーマで自分のことを話すワークがあって、話をしたらまた別の相手と別のテーマを話すというような内容だった。

まあまあの人数とやるので後半はどんなテーマが来てもそれとなく流れやオチを作って話すことができるようになっていて、慣れるもんだなと思ってやっていたのだけど、かなりの数のテーマの中でたった1つだけ答えられない質問があった。

もし誰にでもなれるとしたら、誰になりたいですか?

聞いた時には「これは何かしら出そうだな」と高をくくっていたけど、考えても考えても結局何も出てこなかった。


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昔から誰かになりたい気持ちはかなり強めだったと思う。

例えば、野球部の時は巨人の仁志だったろうし(同じセカンドで好きだった)、ハイスタの横山健(バンドでギターをやっていた)だったかもしれない。憧れた誰かしらになりたい気持ちが強くあったように思う。

身近な誰かの場合もある。

中学の時に「将来の夢」を書いて提出しなければならず、何もなかった僕は好きだった隣の女の子の「ラジオのDJ」をまんまパクって書いた。キラキラした夢を語るあの子に憧れて、好きというか、自分が無かった僕はその子になってしまいたかったんだと思う。

そんな僕が「誰かになりたい」と思わなくなったのは、何故なんだろうか。


1つは僕がおじさんになったからかもしれない。

会社では若手ともてはやされる自分も(そもそもまわりにおじさん超えの人たちが多過ぎるのだけど)、残念ながらしっかり枕の臭うおじさんである。

これまでの人生経験を経て、さすがにこれからプロテストを受けて巨人に入ろうだとか、バンドで一発当てようかなんて思わなくなる。

そんな大げさなことではなくても、さすがに30年以上自分をやってきているので、できないことはできないと身の程をしっかりと知るのだ。

そしたらもう、苦手なことやできないことは無理しなくてもいっかな、と思えてくる。


本当に当たり前だけれど、仁志は死ぬほど野球の練習しただろうし、横山健も何年も続けて来た超人気バンドを解散したり大変だったろう。

好きだったあの子はラジオのDJにはなっていない。就職はせず、全国を旅して周り、今は田舎の実家にいるらしい。

私には私の地獄がある

あるアナウンサーがフリーになって言った言葉だそうだ。

本人がどういった思いから発言したのかはよく分からないけど、何となく自分なりの解釈で飲み込める気がする。

地獄も色々だろうけど、ここまで生きて来て「あれは地獄だったかもなあ」と思えることは僕にもある。

そして最近は、大体の人たちにあるんだろうなと思っている。

このところ相談を受けたり、悩みを抱える人と接することが多い。まさにその人たちはその人なりの地獄と向き合っている最中だ。

良く見えている人も、何かしらを抱えて生きている。

誰かになりたいということは、その人がそこに到達した過程ごと乗っ取ることだ。そう考えると、その人の地獄まで乗っ取れるなんて思いもしない。

そんな風に考えるようになったから、もう僕は誰かになりたいと思わないのかもしれない。


人生は漏れなくたいへんだ。

おじさんになってようやくそんな前提に立ったとき、お腹は少し出始めているけど、肩の力は気持ち良く抜けている。

たくさんあった「こうあるべき」みたいなことももう結構捨ててしまって、身軽でもある。

「僕も大変だけどあなたも大変よね」と素直に思えるとき、ふっと力を抜いて相手のことを、相手の後ろにあるものを想像しようとする。

そんな自分はそんなに悪くないなと思っている。

誰かになりたいと思わなくなった自分は、もしかすると昔よりも"自分らしさ"みたいなものに近づいていっているのかもしれない。




読んでくださって、ありがとうごさいました。

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