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『枯れ葉』雑感。カウリスマキからの呪詛と祝福。

YouTubeが観たい。

疲れて帰宅し、晩御飯の仕度を終える。
私の仕事は激務とは程遠いがなぜか疲れている。気力がない。
集中して画面を見続ける必要がある映画ではなく、「ながら見」に適したYouTubeが観たい。

「Tiny Desk Concertの新しい動画を観ようか」
「BBCがアップしているLIVE動画でも漁ろうか」
「おお!踊って(ばかりの国)のDancing Empireの動画(https://youtu.be/eQfoeAff9VA?si=B5RrAKLTZinAihhL)がフルであがっている!」
「いやもっと何も考えなくて良いお笑いでも観ようか」

日本ユニセフHP(https://www.unicef.or.jp/news/2023/0174.html)より

…再生ボタンを押すと、ガザ地区の惨状を伝える日本ユニセフの広告が流れる。
私は暫く画面を観たあとで「スキップ」ボタンを押してしまう。

見ていられない。見続けなければならないのはわかっているが心に許容スペースがない。
動画を楽しみ食事を終えると寝てしまう。

アキ・カウリスマキ監督の最新作=『枯れ葉』の主人公である女性アンサ(アルマ・ポウスティ)もまた、ラジオを消してウクライナ侵攻のニュースをシャットダウンする。

彼女の生活は(おそらく)私よりも過酷だ。
不当な解雇により辿り着いた飲食店は「反社」が経営している。賃金未払いは即時に彼女の生活を圧迫する。
良いなと思った男性(=もう一人の主人公であるホラッパ(ユッシ・ヴァタネン))は酒浸りだ。彼もまた過酷な生活を送っている。慰めはコミックとアルコール。

貧困層にとって“親密圏”への関心は相対的に重みを増さざるを得ないが、この2人の主人公はそこへの関心や期待を初めから失っているようにも見える。
決して若くない無表情の二人からは、これまでに失ってきた数多くのものが透けて見える。そして、彼らはまた失い続ける。

86年作 『パラダイスの夕暮れ』(filmarks(https://filmarks.com/movies/10985)より)

思えば、労働者を描き続けてきたカウリスマキの諸作は親密圏や仕事といった「生活基盤の喪失」から始まることが多かった。
『パラダイスの夕暮れ』(1986)では共同創業を持ち掛けてきた同僚の死が、『真夜中の虹』(1990)では実の父親の死が、それぞれ描かれ映画が始まる。
『マッチ工場の少女』(1991)で主人公のイリスは家族という基盤を失う。『浮き雲』(1997)の冒頭で夫婦二人を乗せたバスを捉えるカメラの躍動はその後二人が職を失ってから戻ることはない。

しかし、人間(労働者)は、何か決定的なものを失ってもなお生き続けなければならない。
本作『枯れ葉』において、必ず高層ホテル(?)をバックに撮られるホラッパの職場のトレーラーハウス。
まさに“中心”と“周縁”。
恒久的な成長を前提とする資本主義は常に“中心”と“周縁”を作り出す。周縁はあらゆる意味でスティグマ化され、その周縁を取り込みながら中心は成長を続ける。(その中心は、別の大きな中心の周縁でもあるのだが…)
周縁に追いやられた彼ら、そして私たちに「FIRE」など訪れない。終わらない労働。

映画の冒頭、一定のリズムで繰り返される会計時バーコードリーダーの音は、終わらない労働をまさに思わせる。
しかし、その一定のリズムは、映画の終盤、電車にひかれて病院に運び込まれたホラッパの心電図の音へとつながる。どれだけ文明武装したとしても、人間は臓器一つ止まれば死んでしまう動物でしかない。
“終わらない労働”と“すぐにでも終わりうる命”。その間で私たちは擦り減っていく。

毎日新聞(https://hitocinema.mainichi.jp/article/itsudemocinema-fallenleaves)より

だがしかし、アンサは日々に擦り減りながらも、ラジオから聞こえる戦争に対して「ひどい戦争!」と、はっきりと漏らす。

ネーション・ステート(国民国家)という概念が生まれたヨーロッパ大陸は、20世紀の2つの大戦でその限界に直面し、戦後、ポストナショナルな安全保障と文化経済的な地域統合が希求されてきた。
その空気をたっぷりと吸って生きてきたカウリスマキは、主権国家間レベルでの戦争、移民排斥、主要国での極右政権の乱立といった現在のヨーロッパをどう見ているのだろうか。
ヨーロッパの「辺境」のブルーカラー労働者から発せられる「ひどい戦争!」という言葉に実質的な力は何一つない。
だが同じように感じている市井の人々がこの時代に確かに存在する。それを映画という記録媒体に刻み付けてやるという、ヨーロッパ、ないしは世界に対する彼の“呪詛”のような言葉だと私には思えた。

しかし、なんとまあ「時代錯誤」な映画だろうか。
労働者3部作の4作目、と位置づけられた本作。確かにカメラの性能が上がったことでカウリスマキの画面上の色彩感覚が当時より映えるようにはなっている。が、「『パラダイスの夕暮れ』の未公開だった続編のデジタルリマスターです」と言われても信じてしまうかもしれない。
ゴダールやブレッソンの諸作のような二人のすれ違いを描きたいとしても、「スマホくらい持たせろよ!」と思わず突っ込んでしまう。(ちなみにネットカフェが初めて?出てきます。)

文明の利器を持たない、という点以外でも主人公二人は時代錯誤かもしれない。
互いになかなか目も合わせられない。カッコをつけて自分の気持ちもストレートには伝えられない。職場の人間とは絶えず不和をおこしてしまう。
不器用で現代的なスマートさの欠片もない二人だ。

ナタリー(https://natalie.mu/eiga/news/547195)より

だが、無表情な彼らの表情が僅かに明るくなる瞬間の愛おしさ。それを見たくて私は画面にくぎ付けになる。
一つしかない食器をもう一つ買い足す瞬間。誰かのために小さな花束を買う瞬間。ブタに乾杯(!)する瞬間。家族(犬)が増える瞬間。
これらは経済的にも文化的にも恵まれた人間がプロレタリアートに対して描く倒錯した幻想とは違うように私は思う。
人生に対する一瞬の祝福。それを享受できるかどうかさえも運でしかない。例えば戦争はそれを一瞬で破壊する。
しかし、カメラはそれを切り取り、残すことはできるかもしれない。そのことをささやかに信じること。

カウリスマキ作品は呪詛だけでは終わらない。
アテンション・エコノミーの中では戦争だってスマホがあれば現金化できる。安全圏から。
だが彼の作品を観るのはそのような「スマートさ」からは程遠い人たちだろう。そう、この作品の主人公2人と同じように。

映画の最後、アンサが画面の向こう側に向けてするウインクは、自分と同じように不器用に今を生きる観客へのカウリスマキからの祝福だ。

自分の気持ちも伝えられないシャイな貴方に祝福を。
誰かに何も伝えられずに終わってしまった貴方に祝福を。
自分のことは何一つうまくいってなくても、遠くの地の惨状を気に掛けるあなたに祝福を。

すべての殺戮と不寛容が終わり、2024年が貴方たちにとって良き年でありますように。




*↓日本ユニセフへのサポート
https://www.unicef.or.jp/cooperate/coop_monthly2.html?utm_source=google&utm_medium=cpc&utm_campaign=google_main_brand_unicefbokin_exactmatch&gad_source=1&gclid=Cj0KCQiAy9msBhD0ARIsANbk0A-1jTZ1_T54f473C3YulrTbwp9ZyFluF0cZTUwTXgSYpRR7fARo1FMaArLKEALw_wcB

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