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『伝説の森 モーゼパーク』-町おこしの資源となった聖者が眠る地

偽史、フェイクロア、創られた伝統といった背景を持つ場所や存在を、現実と妄想が交差する「特異点」と捉え撮影する記事。今回は石川県羽咋郡宝達志水町河原にある『伝説の森 モーゼパーク』を取り上げる。


『伝説の森 モーゼパーク』とは

聖者モーゼが葬られたという伝説が残る場所

『伝説の森 モーゼパーク』とは、古代イスラエルの指導者、モーゼが葬られたとされる宝達山の三ツ子塚古墳群を整備した公園である(入場無料)。

『モーゼパーク』の入り口。奥は宝達山へのハイキングコースとなっている。

モーゼは神から、奴隷として虐げられていたユダヤ人を、エジプトから脱出し救う使命を受け、40年に渡り「約束の地」に向けて民衆を率いる。
その後「約束の地」に辿り着くも、モーゼは過去に神の命令を守らなかったことから、入ることを禁じられる。そして、「約束の地」を目前にしながらこの世を去る。ここまでが、2番目の旧約聖書『出エジプト記』の大まかな内容である。

しかし実は、そこでモーゼは亡くなっておらず、日本へ渡来し余生を過ごした伝説が宝達山には残されているという。

どのようにしてモーゼは渡来したのか

「約束の地」にユダヤの民衆を導いたのち、およそ3430年前、モーゼはシナイ山から、「天浮舟」という飛行船で宝達山に到着。当時の天皇に十戒を刻んだ石を献上し、感激した天皇は娘の大室姫をモーゼに嫁がせた。その後、583歳という超人的な寿命を全うし、宝達山の麓にある三ツ子塚古墳にて葬られたという。

後ろに広がるのが三ツ子塚古墳群。

では、なぜこのような荒唐無稽ともいえる伝説がこの地に残されているのか。そこには『竹内文書』という、ある古文書が発端となっていた。

『竹内文書』とモーゼ伝説の関係性

天津教が聖典としていた文書の総称

『竹内文書』とは昭和の初め、宗教団体「天津教」の開祖である竹内巨麿が公表した古文書群である。「天津教」の聖典でもあるこの文書の最大のポイントは、何と『古事記』や『日本書紀』より古代の日本の歴史が書かれていることにある。

本当であれば歴史が覆る代物である。しかし、現在に至るまで『竹内文書』は、一般的には目にすることはなく、義務教育課程などでも教わることはない。なぜなら、『竹内文書』は史料としては偽書とされているからである。

『竹内文書』に書かれた歴史とは

『古事記』や『日本書紀』を正史とする日本の歴史は、初代天皇の神武天皇から始まる。しかし『竹内文書』では、それより古代に、100代に及ぶ神々が天皇として君臨していたと書かれている。こういった正史とは異なる歴史文献を古史古伝という。そして『竹内文書』はほかにも、

  • 現代の技術をもってしても製造不可能なマテリアルや乗り物の存在

  • 日本は世界の中心で、キリスト、マホメット、釈迦などが渡来した

  • キリストはゴルゴダの丘で処刑されておらず日本で没した

などといった驚愕の内容が、漢字の伝来以前にあったという「神代文字」で綴られている(学術的には否定されている)。しかし、狩野亨吉や橋本進吉といった教育者、学者たちの検証によって

  • 同一人物とみられる筆跡

  • 文法や仮名遣いの誤り

  • 漢語の混入

などがあることが判明。その結果、歴史書としては偽書であると終止符が打たれた。

では、なぜ偽書である『竹内文書』がモーゼ伝説と関係しているのか。

きっかけは『竹内文書』に影響を受けたある女性の主張

ジャーナリストである山根キクの著書、『光りは東方より』(1937年、日本と世界社)に書かれた内容が発端となっている。

本書は、『竹内文書』に影響を受けた山根の突飛な主張(キリストやヨセフの墓が日本にあるなど)が主に記されている。その中の「モーゼの巻」にて、宝達山の三ツ子塚古墳に調査へ向かった山根は、村の老人に聞き込みをする中で、

  • 夜中、塚が急に赤く燃えたりポウっと明るくなったことがある

  • 三ツ子塚は昔から「大拝」とも呼ばれている(山根はモーゼの尊称であると判断)

  • 塚には宝物が埋まっているとの伝承がある

  • 付近の石灰山で膝~くるぶしまでで2尺5寸(約75㎝)の人骨やその他古代の壺などが発掘された(再度埋めたため行方不明)

といった話を聞く。そして、得た証言と個人的見解を交えた結果、三ツ子塚古墳を「モーゼの墓」と断定した。

今や全世界の覇を握るユダヤ人の全部が、彼等信仰の対象であるモーゼの霊永久に我が日本に眠る事を知り、彼等の全力を挙げて日本大業の成就を援けんとする秋、此處此の場に現存する過去の姿こそ、定めし重大なる役割を演ずべき偉大な存在となることであらう。

山根菊子/『光りは東方より』(1937年、日本と世界社)
三ツ子塚古墳の麓にある案内板。

なお、三ツ子塚古墳が「モーゼの墓」である証拠は未だ見つかっておらず、この著書が唯一の根拠となっている。

三ツ子塚古墳への入り口。石灰石が妙な神秘性を感じさせる。
「モーゼの墓」とされている古墳頂上。大きな石が置かれている。
地震の影響か経年劣化かわからないが、立て札が横に寝かせて置かれていた。かすれて判読が困難だが、「モーゼ大聖主之霊位」と書かれている。

モーゼの十戒石が竹内家で見つかったという

ちなみに、山根キクの著書から少し前、同様にモーゼと日本に関係があるとして調査を行っていた人物がいる。それは酒井勝軍である。

1929年、キリスト教伝道者である酒井は、モーゼの十戒が刻まれた石を求めて「天津教」に訪れる。酒井は日ユ同祖論者(日本人はユダヤ人の子孫という説)でもあるため、石が日本にあるとの信念を抱き、竹内巨麿に捜索を依頼する。

ほどなくして、十戒石が竹内家から発見される。その他にも、日本のピラミッドが広島にある記録、キリストの渡来記録などが次々に発見される。

これらの物的証拠に確信を持った酒井は、同年『参千年間日本に秘蔵せられたるモーセの裏十戒』(国教宣明団出版)出版。その後古代史に傾倒していく(原田実『偽書が揺るがせた日本史』 2020年、山川出版社)。

ちなみに見つかった十戒石や記録等は、酒井の話に合わせて竹内が製作したものだったとされている。

観光資源として白羽の矢が立つ

反響が大きかった「モーゼの墓」という触れ込み

元々三ツ子塚古墳にモーゼの伝説はなく、また山根キクの主張も学術的な裏付けはない。
しかしその後、モーゼの話を聞きつけた人(多くが宗教関係者だったという)が、古墳に立ち入るようになり、旧押水町(現在の宝達志水町)の住民は困惑する。

一方で当時の押水町は、突出した農業や工業、目を引く観光資源もない町だった。また、企業誘致にも失敗するなど良くない状況下だったという。その中、突如生まれたモーゼ伝説の反響に希望を見出した。

宝達志水町の風景。町の多くは田んぼが広がっている。

観光地として1993年、『伝説の森 モーゼパーク』をオープン

パーク入り口近くにあるモニュメント。古代遺跡を思わせるデザイン。

行政側は宗教が絡むことや、ともすれば偽史の創出に加担することに、慎重な姿勢を見せていた。だが、町の現状を鑑みると、「モーゼの墓」は町おこしの起爆剤となりうる。

そして1989年、商工会員や町議らが「モーゼクラブ」を発足。当時、国が全国の市町村に配布した「ふるさと創生事業」の1億円などを活用し、1993年に三ツ子塚古墳群を整備した『伝説の森公園 モーゼパーク』をオープン。現在も、オカルト・都市伝説マニアなどが集う名スポットとなった。

町の案内板。現在地から左少し上に『モーゼパーク』が書かれている。
道中の標識。現在は「伝説の森公園」と書かれているが、以前は「伝説の森公園 モーゼパーク」と書かれていたことが跡から見て取れる。
パーク付近の案内板。辺りは田んぼのためとても目立つ。

終わりに

奇想天外なストーリーに乗っかった、町のユーモアさを楽しむスポット

『竹内文書』が偽書であるとされている以上、同様に「モーゼの墓」も真実である可能性はないだろう。だが、あまりに壮大なスケールかつエキセントリックな内容のため、ここまでくると、真偽の程はどちらでも構わないような気にもさせてくれる。

『伝説の森公園 モーゼパーク』は、時空を超えたロマン溢れるストーリーと、当時の行政の現実的な情勢、双方の視点に思いを馳せながら楽しめる複雑さが魅力なのかもしれない。

山中の標識。モーゼの物語を思い浮かべながら進むと良いのだろう。
普通のハイキングも巡礼のような旅路になるかもしれない。
他では味わえない、悠久の時を感じさせる森林浴。

どうしても名所ばかりに集中しがちな石川観光。もし人が少なく、一風変わったところをお探しの方は訪れてみるのは如何だろうか。


既に4月と大変遅ればせながらではありますが、このたびの令和6年能登半島地震で被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。被害を受けられた皆様の安全と平穏な生活が、1日でも早く戻られますことを心よりお祈り申し上げます。

大変僭越ではありますが、この記事を見た方が1人でも訪れ、経済回復の一助となれば幸いです。今後も微力ながら、自分ができる支援を続けてまいりたいと思います。

古墳の巨石付近にあったMPPOEのピースポール。こんなところにもあるのかと思いつつ、その言葉通り平和を願わずにはいられない。


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