見出し画像

自由に学ぶ/自由を学ぶ

学校だけが教育や学びの場所ではない。よく授業をしていると、「学ぶというのは学校でしかできないことだと思っていた」、という学生と出会う。学習とは「学校での学習内容を学ぶこと」、という意識があまりに強すぎるように感じる。

もしそうだとしたら、大学に来ても自由を謳歌して、自分が勉強したいことができて毎日が楽しくて仕方ない、というふうにはならないことはよく分かる。
実際、大学がなにをするところかよく分からないという学生は少なくないのではないか。わたしもそうだった。楽しくもなかった受験勉強を終えて、なんとか大学に入ってみたが、さて大学とはなにをするところなのか分からない。だれも教えてくれない。なにを勉強したらよいのか分からないから、入学早々、仕方なく大学の図書館で「大学とはなにをするところか」という本を読み始めた。ふりかえれば、わたしはマニュアル人間だったわけだ。人から「これをしなさい」と言われないとなにもできない。恐ろしい。

大学に行く意味なんてあるのか、と思っているとしたら、「行く意味なんかないのかもしれない」と答えたくなる。だって大学に行かなくたって、自分がなにを学びたいのかはっきりしていたら、大学に行かずにほかのコミュニティに行く(伝統工芸のものづくりの現場、会社、専門学校、俳優養成所…)という選択肢だってもちろんあるからだ。もちろん、大学に行きたくても行けないという人もいる。

大学に行けば、なにかを提供してもらえると思って来てみても、だれもなにも提供してくれない。その代わり、自分が提供してほしいと思ったことは、最大限提供してくれるはずだ。高い学費を払って、来た意味がないと思うとしたら、じゃあこれまで自分はどんな勉強をしてきたか一度整理してみてもよいかもしれない。

わたしが学生だったときは、「学生という立場」が、社会のいろんなコミュニティを自由に行き来できるパスポートのように感じていた。飲み屋に行くと、「あんた、学生か?これ食べえや」とか、ある楽屋に入らせてもらうと、「これ見ときや、こないしてすんねん」とかいろいろ教えてくれたり。とてもめぐまれていた。また博物館や美術館に行けば学生割引があるし、そもそも学生だったらアルバイトでも変な目で見られない(もっと歳が行くと、いい歳してアルバイトかよっていう社会の厳しい目から逃れられなくなる。もちろん、わたしはそんな社会の方が問題があるに決まっていると思っているが。とにかく、ありもしない社会の目線を勝手に内面化してしまうことになるのだ)。
この「学生パスポート」を使うと、思いもよらないコミュニティの自由往来ができるようになって、つながらなかった人間関係やアイデアがつながり、知らなかったことを知り、あたりまえだと思っていたことが、あたりまえじゃないことに気づくことができるようになる。こんな自由な立場はない。少なくともわたしはそう感じていた。ありがたい。

さて、話は変わるがマナラボというグループで、「世界を旅しよう!」というワークショップを、京都を拠点にしてやっている。マナラボでは、人類学者や地域研究者が世界中から集めてきた「資料」(道具から映像からいろんなものを含む)を、単に論文や本にするのだけではもったいないので、これらを用いて文化を学ぼうというイベントを企画、実践している。全国各地から小学生とそのお父さんやお母さんが参加する。去年も、カナダの先住民クリンギットの動物への考え方をなぞるイベントをオンラインでやった。クリンギットの人たちはいばしば「動物」になる。自分たちの祖先はワタリガラスやオオカミといった「動物」であると考えている。おそらくこう書くと、そういう非科学的なことを学んでどうする。教養がつくかもしれないが、生きる力にはならないと思われるかもしれない。また伝統文化を学んでみたって、そんなものは近代化や発展を阻む障害とさえ考える人もいるだろう。わたしはそうは思わない。でもなぜそう思わないかはここでは割愛させてもらう(ちょっとそんな簡単に書けないからだ)。

ただ、ひとつだけ付け加えておきたいのは、「動物」という言葉を使うこともまちがっているかもしれないということだ。少なくとも、わたしたちがいまここで思い浮かべる「ドウブツ」と、クリンギットの人たちが経験している「どうぶつ」とはまったくちがうものであるはずだ。

話を戻そう。さて、クリンギットにはカエルやシャチといった氏族がある。クリンギットの人たちは、氏族ごとに、その動物にちなんだ踊りを作って、披露する。彼らがそうするように、動物にまつわる踊りを作って、わたしたちもみんなで踊ってみるわけだ。

クリンギットがやるように動物になって踊ってみてどうだったかと、参加者の子どもに聞いてみる。カエルの踊りを作って演じたある子どもが、「自由になれた気がした」とぽつりと答えた。あまりにそっけなく言うので、わたしは「りゅうになれた?」と聞きまちがえた。しかしやっぱり彼が言ったのは「自由」だった。びっくりした。その子にとって、日々人間だけを演じることは重すぎるのかもしれない。いまの日本社会で、学生や子どもがなにかにしばりつけられているように見える。わたしはそうだった。いまの教育にはさまざまな課題があるが、なによりまず、学校以外の学びの機会が少なすぎるのではないだろうか。学校では「自由」は教えてくれないのかもしれない。

「日本を離れて別世界にトリップする(オンラインだけど)」と、自分が普段の生活の中で、いったいなににしばられているのかを実感する。これは実は、人類学者がやってきたことだ。わたしの場合は、なんでこんなに生きづらいのだろう、という問いがカメルーンに行くきっかけとなった。でも生きづらさを感じていなかったら、そんな遠いところまでわざわざ行かなかったのだと思う。

異文化ってそういうものだ。教養のために身に付けるものではない。もちろん、別にそうであっても構わない。言葉にされずに無意識の中で押し付けられている規範や考え方が、わたしたちの暮らしの中にはたくさんある。その規範って、ほんとうにあたりまえ?というか、そもそもあたりまえってなに? そんなことを考えられる文化体験ワークショップのあり方を探っている。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?