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『オムライス 600円』

その店に一歩足を踏み入れてすぐ、しまった、と思った。
薄暗くて狭い店内は大きさの揃わない机と椅子が不揃いに並び、それぞれ統一感のない柄のクロスがかけられている。
壁には古い映画のポスターやどこかの風景写真、あるいは有名アニメのイラストが無秩序に貼られていて、その合間を埋めるように色褪せたジグソーパズルがかけられていた。場違いな予感に足が止まった。
他に客がいる様子もない。
「いらっしゃいませ!」
人の気配を察したのか、店内から待ちかねたように元気の良い声がかけられて、私は逃れられない運命を感じながら入店するしかなかった。
頭にバンダナを巻いた男性が、カウンターの奥から覗き込むように顔を出してこちらを見た。細身の顔にかけられたマスクは隙間だらけで、役目を果たしているようには見えない。他にスタッフがいる様子もなく、おそらく彼が店主なのだろう。
「何名ですか?」と聞かれて、人差し指を立てて見せた。
奥からは雑多な食品臭が漂い、なるべく不快感が顔に出ないよう無表情を貫いた。
「お一人様ね?どこでも好きな席にどうぞ」
通路と呼べないほどの狭い隙間を体をひねりながら通り抜けて、カウンターから一番離れた奥にある2人がけのソファ席に座った。
まるで自宅で使い古したようなぺたんこのクッションをどかして、重量のあるリュックを横にどさっと置いた。
「今日は寒かったでしょう」「だいぶ冷えてきましたね」と絶え間なく話しかけられ、「はい」とか「そうですね」とか無難な返答を繰り返した。
目の前にはお茶の入ったグラスが置かれた。湯気が立っている。温かいお茶を用意してくれたようだ。
テーブルに置かれたお手製らしいメニュー表を開く。手書きだ。一般的な洋食メニューが安めの価格で並んでいる。
そうしている間も、ブランケットを手渡してきたり、電気ストーブを私の真横に持ってきたり、たった一人の来客に対する店主の甲斐甲斐しい世話が続いた。
メニューに一通り目を通したが、注文するものは決まっていた。
「オムライスで」

今日は土曜日で学校は休み。
朝早くに出かけた母に言いつけられた洗濯物を干す作業が面倒で、なかなか体が動かずダラダラと過ごしてしまった。
そのせいで出遅れてしまい、駅前の図書館に着いたときはすでに自習用の机は満席だった。
図書館の書籍エリアをフラフラと回って、気になる本を手に取ってパラパラとめくったりしながら、席が空かないかそれとなく気にかけた。
読書用に置かれた一人がけの椅子に座ってもみたけれど、机にノートを広げて勉強したかったから目的は果たせない。
テキストの入った重いリュックを背負ったまま所在なげにうろうろして、11時を過ぎた頃には席の確保を一旦席諦めて先に昼食を取ることにして外に出た。
駅が近いとはいえ休日の昼時前という妙な時間帯。目ぼしい店は「準備中」「定休日」といった札が目立った。
普段通らない裏路地にも入り、ガラス越しに覗いた中華料理屋はビールを飲むおじさんたちの姿が見えたので素通りした。
うつむき加減で狭い雑居ビルの前を通りがかった時、足元の看板が目に入った。
 "オムライス 600円"
手書き文字が胡散臭くも見えたけど、安さに目が止まった。母からお昼代としてもらっている500円に、自分のお小遣いから100円を足せば食べられる。
今どきファストフード店でも一食あたりこの金額では収まらない。
洗濯物干しの手伝い、図書館での空席探し、飲食店探し、特にこれといった労力のかかることはしていないのに何だか疲れていたので、洋食という無難さもちょうど良かった。
雑居ビルの2階にあるその店は、外から様子を伺うことはできなかった。
薄暗い階段を上がる途中にも置かれた案内看板に誘導されるように、ここまで来てしまった。

曇ったグラスの衛生面が気になったけど、温かいお茶はありがたかった。
スマホをいじっていても、店主はこのところ続く寒さの話や、やっぱり春と秋が過ごしやすいねといった話を続けた。誰にでも通じる世間話といえば天候くらいしかないのだろう。適当な相槌を打ちながら、店内に貼られた数々のポスターや貼り紙を眺めて過ごした。思想を感じる色紙や、名言らしいことが書いてある手ぬぐいもあった。
やがて、フォークやスプーン、箸などが入った細長いカゴが置かれ、少し待ったら白い大皿が出てきた。
オムライスは薄焼き卵で包むタイプではなく、ケチャップライスの上にスクランブルエッグを乗せるタイプだった。
ワンプレートには他に千切りキャペツのサラダとナポリタン、煮込みチキンも乗っていた。
思ったより大きなボリュームに驚きながら、ケチャップのかかった大きな卵のかたまりを目の前にすると食欲をそそられて早速口にする。
「学生さん?」と聞かれて「いえ、まだ受験生です」と答えた。
図書館に行ったけど席がいっぱいで、勉強する場所に困って先にお昼を食べにきた話をした。
「ずっと新聞を広げてるおじさんもいるんですよ」と話すと「家に居場所がないのかもねぇ」と返ってきて、二人でふっふと笑った。
オムライスは、スライスした玉ねぎやウィンナーが入っていて、ごく普通の味だった。
大皿いっぱいに盛られた食事が終わるころになっても、相変わらず他の客が来る様子はなかった。
お茶のおかわりを頼もうとしたら、セルフサービスでどうぞといって数種類の紅茶のティーバッグとカップ、そしてお湯の入った電気ポットが出てきた。
これを淹れてしまうと、飲み終わるまでもうしばらく滞在しなければいけない。
少し思い切って聞いてみた。
「あの、ここでテキスト開いても大丈夫ですか?」
店主はカウンターの奥から「どうぞどうぞ」と言ってくれたので、もう少し長居することにしてティーバッグの封を切った。
ここには机と椅子とストーブがある。あたたかいお茶もある。満席の図書館に戻るよりも居心地がいい気がしていた。

リュックの中からテキストと副読本を出して、開く。
難易度の高い問題集を解くのはまとまった時間と静かな環境が必要で、こういう合間時間に開くのはどちらかというと副読本の方だった。
生活とリンクする知識と写真、美しい化学式。眺めながらノートを取り、自分なりの解答を導く。
受験生ではあるけれど、私の心はほぼ決まっていた。この本を書いた人が教鞭をとる大学に進学して、授業を受けるんだ。
決めた進路は今の受験対策を続ければおそらく通る。
学校は少しでも上を目指すように指導するし、親もそれを望む。そこに私の希望を挟む余地はないし戦う時間も労力も無駄だから、周囲の期待に沿う素振りをしながら、万全の受験対策と自分の夢とを踏み固めているのが今の私の日々だった。
私がテキストを開いてノートを取る間、店主は話しかけてこなかった。食器を洗うような水音と、それが終わると次の仕込みなのか包丁で何かを刻む音がした。包丁の切れ味は悪そうだった。
単元ごとに小さく区切り、ここまでと決めて取り組むのが私の勉強法だ。およそ10分から長くても15分以内には完了する。盛大な目標を掲げるよりは、亀の歩みであっても集中力が続いたほうが、結果的に先へと進む。
ふぅ、とペンを置いて両手を伸ばしたところで、テーブルに小さなプレートが置かれた。缶詰のフルーツとミニシュークリーム、一口サイズのロールケーキの盛り合わせだった。「別腹でどうぞ」と店主が笑った。先ほどのボリュームたっぷりなオムライスで満腹だったけど、甘いものを欲する本能は別で働いた。
紅茶をもう一杯淹れた。
「理科の勉強、えらいねえ」開いたテキストのページをチラリと見たらしい店主が言った。
化学式や物質の結晶の写真が並ぶページ、大きな括りでいえば確かに理科だ。
もとはと言えば、ベンゼン環の構造式が愉快で面白いと、友人たちと落書きして遊んでいたのが始まりで、徐々にその魅力に取り憑かれていった。同じ原子で構成されるのに、くみ合わさり方が違うと全く別の物質になる。
教科書では物足りなくなって化学の副読本、参考書、図書室の関連書籍と次々に追い続けた。市の図書館に行って大人向けの専門書を探すと、同じ並びに中高生向けの専門書もあってそちらは写真や図解が多くて理解が進んだ。最初のうちは面白がって付き合ってくれていた同級生たちとは、いつしか興味の方向が離れてしまった。
「この本に出てきた参考文献を探していたら図書館にあったんです。それが面白くて、その本にまた別の参考文献が紹介されていて、そうして芋づる式に次々と面白い本が見つかるんですよ。それで、さらに面白そうな本があったから図書館で探しても見つからなくて、検索システムで探したけど蔵書にないみたいだったから、このあと図書館に戻ったら、購入か取り寄せで入荷してもらえるようにリクエストを出すんです」
好きなことを語り始めると私はつい夢中になって長く話してしまう。
店主さんは「うんうん」とか「へぇ」とか「そんなことできるの」って、話の合間に相槌を打ってくれた。
「じゃあ将来は、学者さんとか、研究者さんになるのかな」
その言葉を聞いて、私はドキッとした。
将来の夢は?と聞かれるときは「先生」と答えるのが定番になっていた。
祖父が小学校の先生で最後は校長先生にまでなった人だったので、両親も自然とイメージができたのだろう。周囲もなるほどと勝手にそれぞれ納得してくれるから都合が良かった。中には「先生って忙しくてお給料も低くて大変そうじゃない」と心配げに言われたこともある。そんなこと、大学受験だってまだこれからなのに、その先の給料や待遇のような現実的な話をされたって分かるわけがない。そのくせ「将来の夢」は頻繁に聞かれる定番の話題なのだ。いつしか夢ってなんだったっけとふと考え込むこともなくなり、夢と聞かれれば先生と答えるのは無難で進学にちょうどいい口実くらいにしか思わなくなった。
将来は学者さんか研究者さんだね。
その言葉は、私の中にある夢という場所に触れた。
今よりもっと学びたいことがあって大学に行く。
そのこと自体を楽しみにして今は受験勉強に取り組んでいこう。

荷物をまとめてリュックを背負い、カウンターで会計をした。
「あの、デザート代は」と聞くと「サービスだよ」と言ってくれた。洋食屋で食べたデザートというより、友達の家で出されたお菓子を食べたような食後感だった。
財布から500円玉と100円玉を出してオムライス代を支払った。
カウンター越しに見える調理場には鍋やフライパンが雑然と並び、反対側の壁にある収納らしきスペースには使われていない家具や小物が雑然と山積みになっていた。こういうの見えちゃうとお客さんがますます寄り付かなくなってしまうんじゃないか。心配になってしまう。
こんな状態のお店で、ボリュームのある洋食を安い価格で出して、果たして採算が取れるのか、経営を維持できているのかはさっぱり見当がつかなかった。
店主さんは「ありがとうね」「またきてね」と何度も言って、店の外に出てビルの階段を降りるところまで見送ってくれた。
オムライス600円。家族や友達を誘って行くのはちょっと難しいけど、一人でまたこっそり行こうかなと思った。

たくさんの本の待つ図書館へと向かう。
研究者になって専門の勉強を深めたら、いつか本を書く仕事だってあるかも知れない。そう考えたら、図書館で手に取る本が今まで以上に身近に思えて、自分の進む道が少し明るく開けたような気持ちになった。

終(4632文字)

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