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自分勝手な「読む」を手放す

コミュニケーションのすれ違いについて思いを巡らせているなかで、ひさびさに石黒圭先生の著書『「読む」技術―速読・精読・味読の力をつける』の冒頭を読んでいたら、以下の文を見つけた。

書いたものに現れる個性は「文体」と呼ばれ、よく知られていますが、読むときにも「読体」というそれぞれの人の個性があります。「文体」と違って目に見える形にならないので気づかれにくいのですが、それぞれの人の性格や背景におうじた読みの偏りは確実に存在します。「読む」技術を向上させるには、無意識のうちに身についた自分自身の読み方の癖の姿を知らなければなりません。本書は、自分なりの読み方、「読体」を対象化し改善する目的を持っています。

『「読む」技術―速読・精読・味読の力をつける』P15

僕たちは文章を前にすると「みんな同じように読んでいる」と思い込みがちだが、実際は人によって読み方が違っているらしい。アウトプットがある書くときの文体に比べて、アウトプットに直結しない読体はたしかに見過ごされやすい。

たとえば何かを読んでレポートを書いたとしても、レポートの内容がおかしかったとしても注目されるのは「書き方」の方だ。そもそもの「読み」の偏りでインプットがズレている可能性は見過ごされてしまう。フィードバックを受けるのは「書き方」のほうで、インプットの仕方ではない。

当たり前のように読めていると思っているかもしれないが、ほとんどの人が自分なりの「読体」を通じてインプットをしている。そこへの無自覚が、理解やコミュニケーションのズレを引き起こすことになっているんだと、改めて気付かされた。

コミュニケーションを円滑にするには、発信の仕方にも注意が必要だが、情報をどう受け取っているのか?も同じように注意しないといけない。

独自の「読体」に凝り固まっていると、言葉の使い方や論理構成、文章と文章のつなぎ方なども我流になっているだろう。高度な言語運用能力の基盤は「読む」ことを通じて磨かれていくため、そこに偏りがあればアウトプットもその癖の影響を受けるように思う。

最近は、アウトプットの仕方ばかりに気を取られていたが、そもそも「読む」によるインプットのあり方に目を向けるほうが先立ったかもという大きな気づきを得られた。

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