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「無駄」を決めるのは誰か?

無駄。むだ。ムダ。

僕は、「無駄」っていう言葉が苦手だ。
なぜ苦手か?を考える前提として、その定義を確認しておきたい。

辞書を引くとこう書いてある。

「役に立たないこと。それをしただけのかいがないこと。また、そのさま。無益。」(デジタル大辞泉)

役に立たないこと、それをしただけのかいがないことは、「無駄」というわけだ。

自分がやっていること、誰かがやっていることを取り上げて、「せっかくやったのに無駄だった」「そんなことやっても無駄だ」なんて言ったり、言われたりする。

なんだか、あたかも世の中には「無駄」を判断する明確な基準があるかのように使われている。

僕が「無駄」という言葉に苦手意識をもつのは、この基準のせいだ。

そもそも、何らかの物や行動が「無駄」かどうかを判断する基準はあるのだろうか?

おそらく、ヒトが「無駄」と使うとき、暗に「特定の目的」を「特定の期間」で達成するために役立ったかどうかという基準をもっている。
そして、その特定の目的も特定の期間も、ほとんどが目の前のことであり、ごく短い時間軸を想定している。

たしかに、特定の目的を特定の期間で達成するために役立つかどうかという基準であれば、「無駄」はあるだろう。

しかし、時間軸を広げ、別の目的を想定した場合に、それは「無駄」だったといえるのだろうか?「無駄」と切り捨てることに、意味があるのだろうか?

最終的に、何かを無駄かどうか判断できる人がいるとすれば、「死の床で過去を振り返る自分」しかいない。

そして、死の床にあって「あれは、本当に無駄だったなぁ」と思い返すことがあったとしたら、その瞬間に「それ」は「無駄」とは呼べない代物になっているのではないだろうか。

要するに、「無駄」なんてものはない。
自分のやったことやまして他者がやったことを軽々しく「無駄」と切って捨てることがなくなってほしいと願うばかり。

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