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【四苦八苦】嫌な人にも会わなきゃいけないし、苦手な仕事もしなきゃいけない・・・といった人生のデフォ

■ 生きるとは「四苦八苦」そのもの


「四苦八苦」という言葉がある。

何かのタイミングで聞いたことがあると思うが、これは仏教の言葉である。

まず、四苦とは「生・老・病・死」である。

―― 誰もが意図せずこの世に生まれ、
―― 誰もが年を重ねて老いていき、
―― 誰もが病気やケガをし、
―― 誰もが確実に死を迎える

これらは四苦八苦の「四苦」にあたり、これにさらに以下の4つの苦しみが加わり四苦八苦になる。

愛別離苦(あいべつりく)
――  どんなに愛している人がいても、別れのときは絶対に訪れる。

怨憎会苦(おんぞうえく)
――  どんなに話すのが嫌な相手でも、関わらざるをえない場面は出る。

求不得苦(ぐふとっく)
――  どんなに求めていても、理想どおり手に入らないことはある。

五蘊盛苦(ごうんじょうく)
――  どんなに自分の心や肉体であっても、確実な制御はできない。

つまり、四苦が生物として当たり前の摂理であるのに対して、それに加わる4つの苦しみは「すべては思ったとおりにいかない」という事実である。

よくよく考えると当たり前のことだが、それに対して恐怖したり抗ったりするのもまた人間である。そして、そこから苦しみが新たな苦しみが生まれる。何たる負のループ。


■ 嫌な人でも会わなきゃいけない 


四苦八苦の中の「怨憎会苦」は、いつの世も多くの人たちが抱える人間関係の悩みにつながると思う。

「あそこの取引先は苦手だから行きたくねー」

「話が長いお隣の奥さんと会わなければいいな」

「何を言っても反発する人に説明するのは億劫だ」

「嗚呼、愚痴ばかりの飲み会に行きたくない」

・・・こういったことは仕事でも家庭でもあるだろう。

いずれも顔を会わなきゃいけなかたったり、うまいこと避けたつもりだったのに顔を合わせてしまったりで、ストレスばかりが重なる。

もちろん、何とかして回避することはできる。取引先の担当を代わってもらったり、やり取りすること自体を断ったり、「あなたとは話したくありません」と言うのだって1つの手段だ。

しかし、その場ではうまく回避できたとしても、その後に生理的に顔を見たくない人や話が合わない人と、一時的あるいは継続的に関わらざるを得ない場面は必ず訪れる。

そのたびに回避ばかりしていては、周囲にも迷惑がかかるし、何より自分自身が最終的に孤独になってしまう。

「親しい人だけがいるだけで十分」「最低限の人間関係で満足」という考えもあるが、上記でもお伝えした四苦八苦の1つとして「愛別離苦」という現実が待っていることを忘れてはいけない。


■ 生きるとは嫌なことや面倒事の連続


「怨憎会苦」を拡張して考えると、嫌なことを完全に避けることは不可能という話になる。

「好きなことをして食べていく」「得意なことを仕事にする」という耳障りの良いフレーズから、そのような働き方を求める人がいる。

もちろん、そのような仕事の選択はできるだろう。

しかし、好きなこと・得意なことだけで仕事が成立することはない。どこかで必ず「やりたくねー」「これは面倒だ」という場面に出くわす。

―― 身体を動かす現場仕事がしたいのに、パソコン操作ができるから事務仕事を任せられたり。

―― 好きな仕事をしようと起業したものの、最初は顧客がいないため苦手でも営業回りをすることになったり。

―― 独立すれば好きにできると思いきや、取引先やユーザからの無理難題に対して自分の理想とズレた働き方になったり。

これは四苦八苦の1つの「求不得苦」にもつながるが、いずれにせよ思ったとおりにいかないのは、人生におけるデフォルトである。

ときには逃げることも大切であるが、いつまでも嫌だ嫌だと逃げ回っている先にあるのは孤立しかないだろう。


■「仕方ないよね」と諦める


「怨憎会苦」を中心にお伝えしてきたが、これも含めて四苦八苦に対しては下手に抵抗せずに受け入れてしまったほうが健全であると言える。

すでに生まれてしまっているし、体も思考もノンストップどんどん衰える、怪我も病気だって訳もわからずにしてしまう。

平均寿命や健康寿命なんて統計はあっても、寿命という言葉が意味することは、結局は誰もがいつか死ぬと言うことだ。

死ぬという事実に限らず、今までいつでも気軽に会えていた人が急に遠方に引っ越してしまうこともある。スマホでやり取りできるとは言え、それまでの関わり方とは変わってしまう。

嫌な人との関わりを回避できないことは上記でお伝えしたとおりだし、欲しいと駄々をこねても手に入らないものは沢山ある。

自分の心身だってうまくコントロールできないのに、他人をどうこうしようなんて不可能だ。

それならば、このような四苦八苦に対しては、多少のストレスを抱きつつも「仕方ないよね」と諦めてしまったほうが良い。

割り切れないと思うかもしれない。しかし、割り切れないという気持ちもまた苦しみであると受け入れて、「割り切れないのも仕方ないよね」と考えることも必要だ。


――― ちなみに、四苦八苦も仏教の言葉だが、「諦める」という言葉も仏教で使われる言葉である。

「諦める」と言うとネガティブな印象を受けるかもしれないが、「諦める」とは「物事を明らかにする」という意味である。

悩みや苦しみに対して向き合い、その正体を明らかにしてき自分が納得できる選択を編み出していくプロセスである。

「仕方ないよね」も投げやりかもしれないが、そのように諦めることができれば、目の前の苦しみに対して力を入れずに向き合うことができるようになるかもしれない。

それに、嫌なことに「えいやッ!」と頭を空っぽにして飛び込んでみたところ、色々な発見をしたり、終わってみれば達成感を得られることもある。

そう考えると、四苦八苦という苦しみから逃れるためには、意外なことに「馬鹿になってみる」ということが有効なのかもしれない。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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