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【自灯明、法灯明】どうすればいいか?は自分自身に問いかけてみる

答えを求める現代人


分からないことがあるとスマホですぐ検索できる。

ブラウザとかURLとか知らなくても、いつものアイコンを押して指先ひとつでキーワードを入れると情報は得られる。

昨今ではAIに質問すると、かなり的を得た回答が返ってくる。

苦情などの感情をともなう問い合わせを除けば、疑問や不明点の半分以上はインターネット経由で解決できてしまうだろう。

しかし、このような便利なツールやプラットフォームが充実しているためだろうか、すぐに答えを求める人たちが増えているように伺える。

いや、疑問や不明点に対して「すぐに答えは見つかるもの」と思い込んでいる人が増えたといったほうが正確かもしれない。

私は介護サービス事業を営んでいることから、色々な職員から「どうしたら良いでしょう?」というニュアンスの相談を毎日のように受ける。

そのような問い合わせに対しては一応の返答はするものの、職員によってはほとんど自分で検討しないまま、まるでこちらを検索エンジンやAIかのように問いかけをしてくる。

「そんなことくらい自分で考えろ」なんてことは思わないが、相談にくるならば「どうしたら良いでしょう?」に対する問題を、短時間でも良いので自分なりに分析してほしいと思う。

そして自分なりの仮説でいいので「この問題に対してこうしようと思うのですが、いかがでしょう?」と聞いてもらったほうが、こちらとしても好意的に応じやすい。

仮にその考えが的外れであっても、短時間でも自分なりに検証・立案することは、すぐに答えを求めるよりも有意義であることは間違いない。


アドバイスに納得できない理由


とは言え、自分なりに検証や考察をして「この問題へのアプローチはこうかな?」と考える癖をつけるには習慣化として時間を要する。

そのため、すぐに「どうすれば良いでしょう?」と相談に来ること自体は仕方がないだろう。ある程度は気長に教育していくしかない。

そこで「そうだな、こういう考え方をしてはどうだろう?」とか「✕✕について調べてみて」とか「こういった手法やツールを試してはどう?」といった具体的なアドバイスを提示する。

しかし、ここで「こうしたらどう?」というアドバイスするものの「でも・・・」と納得しない顔をする人が多い。

「どうすれば良いでしょうか?」と相談に来たわりに、「でも・・・」と色々な理由を言う。

この場合、その人はこちらの言うとおりにしたくないという反発感や、行動したくない理由から「でも・・・」と言っているわけではない。

おそらくだが、その人の中である程度の答えや方針が定まっているのだ。
しかし、自分の中にある考えに対して不安感がある。

そこで他者に相談することで自分の考えが他者から出てくるのを期待しているわけだが、相談した相手からそれが一向に出てこないから不満を抱く。

きっと自分の中にある考えとベストマッチする回答が出てくれば、「やっぱりそうですね!」と言うのだろう。

要は、自分の考えが不安だから他人のお墨付きが欲しいわけだ。

それならば最初から「自分はこう思う」「いかがでしょうか?」と言えば良いものだが、それを言ってしまうと自分の言葉に責任を負うのが嫌だから、誰かに代弁してもらいたいのだ。


お釈迦様の遺言


何が言いたいのかと言うと、人間というのは色々な問題に対して「どうしたらいいのか!?」と頭を抱えても、実はそれなりに自分なりの答えや方針が見えているという話だ。

仏教には「自灯明、法灯明」(じとうみょう/ほうとうみょう)という言葉がある。

お釈迦様がお亡くなりになる直前、お弟子さんたちが「あなたが死んだら私たちは何を指針に生きていけば良いのでしょうか?」と困惑した。

それに対してお釈迦様は「自灯明、法灯明」と伝えたと言う。

―――「自灯明」は、自身を拠り所として自律すること。

―――「法灯明」は、これまでの教えを自戒をし続けること。

お釈迦様を失うことはお弟子さんたちにとって不安だったろうが、これまで生きてきた自分という存在は確かにあり、厳しい修行とともに守り続けてきた教えは決して消えることはない。

これからは自らを灯りとし、迷うときは教えという灯りを思い出す。

詳しい解説や解釈はお詳しい方にお任せするとして、「自灯明、法灯明」というお釈迦様が残した言葉は、現代人にとって1つの道標になると思う。


それなりの答えくらいは誰でも思いつく


別に仏教を学べという話ではない。

特殊な環境で生きてきた場合は別として、多くの人たちは現代においてそれなりに学校に行って、それなりに人と関わり、それなりに学習と経験を重ねて、それなりに自分で考えて選択し行動してくるものだ。

そこで安全で身の危険がない日本という国の中で起こる出来事なんて、それなりの年齢になれば「こうしたらどうだろう?」くらいは思いつく。

また、上記の内容と矛盾するようだが、「こうしたらどうだろう?」の中には身近な人たちや専門家に相談することも含まれるし、とりあえずスマホで検索したりすることも選択肢の1つとしてある。

ただし、いずれにせよ色々な選択肢のなかで行動するのは自分である。

それまでの人生で得た教訓や経験を法灯明とし、自分の意思で行動するという自灯明の精神をもてば、「どうすれば良いか?」は解決に向かうだろう。

自分の考えに不安があって他人のお墨付きが欲しいのは分かるが、大切なことはある程度の段階で「こうしよう」という方針を決めたら、あとはそれに沿って行動することである。

そこには「あの人が言っていたから」「〇〇さんのアドバイスに従っただけだ」という言い訳は通用せず、例え暗闇を歩くような不安な状況でも自分を灯りにする覚悟があれば、途中で「やるしかねー」と前に進むしかない。


――― なんだか説教臭い話になって申し訳ない。

他人に相談するなというわけでも、スマホで検索することが悪いという話でもない。

単純に「どうしよう」と頭を抱えるような問題であっても、よほど命に関わる出来事でないかぎりは、意外に自分の中に「こうすればいいのでは?」とう自分の中のアドバイスが出ているという話だ。

あとは不安であっても、確証がなくても、自信がなくても、前例がなくても、時には周囲から反対されても、自分を灯りとするしかないときは誰でも絶対に訪れる。

そこで失敗したり、間違ったり、非難されることがあるかもしれない。
それはそれで仕方がない。そのような結果になることも誰でもある。

そして誰しも自分を拠り所にして、自分が得た経験を基準にするしかない。
すると「ま、とりあえずやってみるか」と肩の力も抜けるだろう。


ここまで読んでいただき、感謝。
途中で読むのをやめた方へも、感謝。

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