雑記 監督クマガイコウキ 監修いがらしみきお『クモモの木のこと』

まえがき

映画を扱うのは初めてです……というか、映画を扱う気がなかった。
というのも、僕、映画というものにとても疎いんです。全然知らない。いままで観てきたもの、50本もないと思います。集中力がないんですよね。2時間近くもじっと画面を見ていられない。本なら、音楽を聴きながらとかスパゲティを茹でながらとか、片手間にできる。だから大丈夫なんですが。
そう、タイトルにお2人の名前を書いていますが、関係者の方全部を書くことができないです。申し訳ない。あ、そうか!最後に載せたらいいんですね。そんなに多くなかったし、エンドロール的に書いておきますね。
脚本もこのお2人なんですね。企画の辻井さんもまた、『ぼのぼの』に欠かせない人物です。

なので僕の映画評はまともじゃないです(文学はまともなのかと言われると閉口するほかなくなるのですが)。めちゃくちゃ不勉強です。ということを、ご了承ください。

で、なぜそこまでしてこの映画について書こうと思ったのかというと……やっぱり、クマガイコウキさんの訃報が大きい。浅学ながら、ココア共和国での4コマ詩、それと、この映画のみならず、『ぼのぼの』に大きな影響があった。ことくらいしか知らないのです。調べてみてもなかなか出てこない。知りたいなあ。と思い、受け取りたいと思い、着手しました。

そうです。タイトルだけだと、何の映画か分からないですよね。これ、『ぼのぼの』の映画です。2作目。2002年のものですが、いまのところ『ぼのぼの』の映画はこれきり出ていません。1作目は『ぼのぼの』というタイトルで、そこにもクマガイコウキさんが携わっていたみたいなのですが、ちょっと手に入っていません。いつか必ず観たい。

クマガイコウキさんのそれが無かったとしても、この映画は観ていたと思います。僕、『ぼのぼの』が大好きで。人生に欠かせないもののうちのひとつなんです。漫画全巻持っていて、アニメも全部観ています。元々いがらしみきおさんの漫画のファンで……話が長くなるので、このあたりで止めておきますね。だからかなり『ぼのぼの』好きに寄った意見というか、『ぼのぼの』に触れたことがない人はちょっと読んでも分かりにくいかもしれないです。ご了承ください……とりあえず、そういうことで、書いてみようと思います。うまくいくかなあ。

一応、段落に分けてみますね。①あらすじ 感想②あらすじ 感想……みたいな感じで。たぶんすごく長くなるし、読みにくいかもしれませんが、気が向いたら読んでもらえると嬉しいです。

もうひとつだけ言わせてください!これ、FODプレミアムに加入したら観れます!いまのところですが!忘れてた!ぼくはまだ観ていないのでどういう感想を書くか分かりませんが、もし観たくなったら、観てみてください!

なかがき

観ました……。いやあ。良かったなあ。正直、そんなに期待していなかったんです。やっぱり、漫画の映像化ってなると、独特のおもしろさ、テンポ感が変わってくるじゃないですか。しかも『ぼのぼの』ですから。独特さが並じゃない。

けれど、納得のできるおもしろさというか。僕は好きとなると、かなり厄介なファンになってしまい、視野が狭く、マス化するのに抵抗が強くなってしまうのですが、そんな僕でも納得させられました。シマリスくんの可愛らしさ、ぼのぼのの本質、アライグマくんの優しさ、スナドリネコさんのミステリアス。本当に作品としての『ぼのぼの』が好きで、その魅力を分かっている人たちが主となって作っていることが伝わりました。というか、制作陣がそのまま携わっているので、当たり前といえば当たり前なのですが、それにしても見事に映像化できていると思います。フルCGも違和感なかった。

と、ネタバレ防止に、ここまで語ってみたのですが。ここからネタバレ(というかほとんど全部書いちゃう)するので、これから観ようと思っている人は気をつけてください……まあ、20年以上前の映画なので、大丈夫だと思うのですが。先に読んじゃうと減る楽しみも、わりとあるタイプの映画だと思うので。

①タイトルになっているクモモの木というのは、高い丘にある孤立した大木で、悲しいとき、辛いときにその木のそばにいると、そのにおいを嗅ぐと、そういうことを忘れさせてくれる、慰めてくれる木なんです。
コゲトリムシという、コゲに集まる綺麗に光る虫を失くしてしまったぼのぼのと、大切な宝物であるヘソガエルのヘソを失くしてしまったシマリスくんは、がっかりしながら、そのことを忘れるためにクモモの木に行くことにします。
で、そこにいつもいるポポくんという少年がこの映画の主役です。ポポくんはお父さんの暴力のせいでお母さんを亡くし、いつも1人でそこにいる……と噂されています。

作者さんは宮城県出身で、その出身が原因なのか、『かむろば村へ』しかり、『I』しかり、村の話が多い。村という、広いようでとても狭いコミュニティ。何かあるとたちまち全員に、しかも噂という、歪んだかたちで知れ渡る。村には村独特のならわしがあり、村人はみんなそれを信じて疑わない。
『ぼのぼの』に人は登場しないし、住んでいるのは村ではなく森だし、柵も垣根もなく、実に色んな動物がいるし住居もそれぞれ独特なかたちなので、それらとはすこし違うのですが、やはり、村的なにおいは蔓延している。『ぼのぼの』は基本的に1話完結の漫画なので、読んでいるとそこまで違和感がなかったのですが、そういった間違った噂が広がっているところには、改めて『ぼのぼの』の世界を知ることが出来たというか、やはりこの作者は、村という存在に大きく影響を受けているのだな、と感じました。
もちろんそれは作者さんの本意ではなく、それに強い不快感を他作品のみならず、『ぼのぼの』でもあらわしています。例えば、シマリスくんのお姉さん、ダイねえちゃんは、言われたことをなんでもすぐに信じてしまうぼのぼのに「誰かの悪口をそのまま信じることは その悪口を言った者と同じくらいいけないことですよ」と言っています。そう思えば、作者さんは『ぼのぼの』で、理想の村を描きたかったのかもしれませんね。色んな人たちがそれぞれに独立して、色んなかたちで住んでいて、何かあると助け合い、それ以上は干渉しない、という。

②話が逸れました。もちろんそんな噂はデタラメで。ポポくんのお父さんは優しいひと(便宜上みんなのことをひとと表現してしまいます。すみません)なんです。ポポくんはお父さんがすごく好きだし、お父さんもポポくんを好きです。しかしお母さんがいないことは事実で。ポポくんが生まれてすぐ亡くなったんです。ポポくんがクモモの木にいるのは、何かを忘れたいからではなく、待っているんです。何かを。ポポくん自身にもそれが何か分かっていません。ほとんど家にいないお父さんが(普段は近くに住んでいるおばさんに世話してもらっています)、「いつか誰かがお前を迎えに来る。そのひとに着いて行け」と言っていたから、毎日毎日、雨の日もポポくんは待っています。クモモの木を選んだのは、このあたりで1番高い丘にあって、目立つから。
ぼのぼのは海辺に住んでいて、そこからはずっと向こうまで海しか見えないのですが、彼も同じことを思ったことがあった。どんなひとか分からないけれど、いつか、誰かが僕を迎えに来るんじゃないかな、と。
だから、ぼのぼのは「どうせ信じてくれないんでしょう?」と卑屈なポポくんをバカにしません。「僕も同じことを思ったことがあるよ」と応えます。ぼのぼのは不器用で、嘘を吐けない。けれど、この森の色んなひとたちに寄り添えるのは、実際に様々なことを考えて、実行したことがあるから。答えは出なくても、とりあえず色んなことに疑問を抱き、抱きながら、ずっと胸の奥底にしまっていて、いつでも取り出せるんです。
孤立していたポポくんはぼのぼのと、この会話から仲良くなります。ポポくんの家にさえ招待される。お父さんの噂を信じていたぼのぼのは少し躊躇しますが、やはり行くことにします。そこで、ポポくんのお父さんは寡黙だけれど、噂のようなこわいひとではないことを知ります。

このあたりの寄り添い方、行動がぼのぼの独特のもので。あたりまえの主人公じゃないんです。臆病だし、単純で、機転も利かない。けれど、底抜けに優しい。行動や表情、言動すべてぼのぼのです。これ、本当にぼのぼのを知っていないと、こんな風に動かせないと思うんですよね。ぼのぼのを知らない人でも、この映画だけでぼのぼのを知れると思う。たった1時間で、伝えづらい魅力をここまで描けるのは見事です。

③仲良くみんなで遊んでいると、事件が起きます。クモモの木の枝が、何者かによって毎日少しずつ折られていることが知れ渡る。
例によって「ポポくんが折ったんだ」という噂が出回る。子どもたちはクモモの木に近寄ることを禁じられるのですが、それでも木は折られ続けます。
ぼのぼのに訪ねてこられたポポくんが、「僕じゃありません。みんな僕やお父さんのことが嫌いだからそんなことを言うんだ」と泣きじゃくります。ここ、すごく好きなシーンです。ぼのぼのは何も言いません。ただ、ポポくんを見つめるんです。そのままフェードアウト。次の場面に移ります。ぼのぼのは自分から何か発するような子じゃなく、ただただ、まわりを観るんです。自分が不器用だと知っているから、無駄口を叩かない。くさい台詞も言わない。嘘も吐かない。多くの人の理想でありながら、真逆の存在だから、こんなに長く親しまれているのかもしれません。
ぼのぼのは夜、こっそり隠れて、クモモの木を見張ることにします。ポポくんの無罪を証明するために。そこに、ポポくんのおばさんがやってくる。彼女が枝を折ろうとするところを、スナドリネコさんが止めます。
そう。ぼのぼのは、スナドリネコさんに、ポポくんの無罪を証明するのを協力してほしいとお願いしていたんです。スナドリネコさんは「大人に任せるんだな」とそっけなく断ってしまうんですが。やはり気になって、クモモの木を見張ることにしたんですね。
「なぜ、みんなそんなに忘れたがるのかな。おれは忘れるより思い出したいよ」「生まれて初めて星空を見た時、どんなに驚いたか。初めて自分の手足を動かした時、どんなに不思議だったか。生まれたばかりの時に感じたそういうことを、いま思い出せたら、本当にすごいだろうな」「そのときの気持ちさえ思い出せれば、なにがあっても生きていけそうな気がしないか?」

これはそのときのスナドリネコさんの台詞。スナドリネコさんというのは、『ぼのぼの』のなかで、1番謎の多いキャラクターです。唯一のよそ者で、ぼのぼのがある程度大きくなってから森に来ました。傷だらけで海から流れ着き、最初にスナドリネコを見つけ、看病したのがぼのぼのだったんです。
で、そのときのことをスナドリネコさんは語ろうとしない。どこから来たのか?なぜそんな状態だったのか?何度か色んなキャラクターに言及されるのですが、「覚えていない」と突き通し未だに謎のままです。恐らく、それはある意味本当で。完全に記憶がある、というわけではないのは確かなんです。かと言って、なにもかも覚えていないというわけでもないのでしょうが。とにかく寡黙で孤独なのがスナドリネコさんです。
そんなスナドリネコさんだからこそ、この台詞はすごく重い。そして、この映画の主題ですよね。忘れることは、本当にいいことなのか?忘れて慰められることは、健全なことなのか?……とりあえず先に進みます。

④ポポくんのおばさんを止めた翌日、スナドリネコさんがぼのぼのの元に来ます。ポポくんのお父さんが死んだことを伝えに。
ポポくんのお父さんは、昔から悪いひとたちとの付き合いがあった。ずっと関わりを止めたがっていたのだけど、なにかの節に喧嘩してしまい、そして死んでしまった。ポポくんのお父さんは、敷かれたクモモの木の枝の上に寝かされ死んでいました。枝を折っていた犯人は、ポポくんだったのです。お父さんに、痛みを忘れてもらいたかった。
「バカなやつだ」と去ってしまうスナドリネコさんですが、ぼのぼのは「でも、すごく安らかな顔だね」とじっと眺めます。

ぼのぼのが死と向き合ったのは、初めてかもしれませんね。ぼのぼののお母さんは、ぼのぼのが生まれると同時に亡くなってしまっているので(ぼのぼのはそのことを知っていますが、この映画の時には知りません。そういえば、この死に方は、ポポくんのお母さんと同じですね)、お母さんが死んでいることは知っていながら、面識はないので、会話を交わした人とは、やはりすこし違うでしょう。
そしてそのこと(母の死)が描かれるのも2016年のことですから、2002年に上映されたこの映画は、『ぼのぼの』ではかなり異質です。
 死と出会ったぼのぼの。しかし、それはこの映画のオリジナルキャラクター、ポポくんのお父さんであり、慰める側です。なので、あまり感情を見せない。最近できた友人の、唯一の親であるお父さんが喧嘩で亡くなった。にも関わらず、「安らかな顔だね」とぼのぼのは言えます。半端な感情を安易に出さないのでしょう。

⑤そして、お父さんが亡くなってから、ポポくんが行方不明になります。大雨のなか、スナドリネコさんとぼのぼのは手分けして探します。夜が更け、ぼのぼのは出会った場所のことを思い出します。「ポポくんはきっと待っている」「待ち続けていた誰かが来てくれる、そう思って待っている」「僕はポポくんの友だちだ。だから、僕が迎えに行こう」息を切らしながら、ぼのぼのは高い丘を登り、泣き続けるポポくんの元に行きます。「ポポくん、僕、迎えに来たよ。僕たち友だちだよね。だから僕、迎えに来たよ」
しかしポポくんは、泣きながら絶叫します。「ちがいます。僕を迎えに来るのはぼのぼのくんじゃありません。僕を迎えに来るのは、もっとちがうひとです。もっとすごいひとです」

すごくシリアスな場面なのですが、ちょっと笑ってしまいました。そう。ぼのぼのは、「選ばれない」ひとなんです。いつも。ぼのぼのは――たくさん友だちがいるし、ぼのぼのを嫌うひとはいないのだけれど――誰かの特別になれません。
ぼのぼのがどうして誰にも選ばれないのか、それは、ぼのぼのも誰かを特別に想っていないからなんじゃないか、と思うんです。親友はアライグマくんだし、シマリスくんだし、お父さんとはとても仲が良い。けれど、特別な想いを誰かに向けることがない。初対面のひとにも、親友たちとの態度はあまり変わりません。だからポポくんのような子とも仲良くなれるのですが。
あとは、恋をしない。『ぼのぼの』という作品内で恋が描かれないわけではありません。アライグマくんなんか、何度も恋をするし、恋について語る場面もある。けれど、ぼのぼのはそういうことがイマイチよく分からないんですね。そして、誰かを特別に想ったとき、誰かに特別に想われたとき、ぼのぼのはぼのぼのから少し離れてしまうのでしょう。このあたり、漫画やアニメに触れていないと分かりにくいのですが。ここでポポくんに泣いて抱きつかれ、喜ばれるようなぼのぼのじゃないんです。そんなことさせない制作陣の方々。ほんと、感謝の言葉しか出てきません。

⑥すぐ逸れてしまいますね。スナドリネコさんがみんなを連れてやってきます。変わらずポポくんは泣き続け、「誰も迎えになんか来ないじゃないか」とポポくんが叫ぶと、クモモの木に雷が落ち、焼けてしまいます。
燃え盛るクモモの木は、いつもとちがうにおいがする……シマリスくんはヘソガエルのヘソをどこにしまったか思い出し、アライグマくんは、こわくてすぐ暴力を振るうお父さんが、幼いころ遊んでくれたことを思い出す。
そう。クモモの木は、ふだんは色んなことを忘れさせるにおいを放っているのですが、燃えると、色んなことを思い出させるにおいを放つんです。そして……ポポくんのおばさんが歩いてやってくる。ポポくんのおばさんは、ポポくんのお母さんだったんです。そのことを、生まれた時、その瞬間のことをポポくんは思い出す。クモモの木が燃えきると、大量のコゲトリムシが煌めきながら木に集まります。それはとても美しく、ぼのぼのは、初めて星を見た瞬間の、その感動を思い出す。
お母さんは、自分とポポくんがいなくなればお父さんが悪い仲間との関係を断ち切れるのではないか、と思い、他人のふりをしていたのでした。
「みんな、色んなことを思い出した。いいことも、悪いことも。でも、思い出に、悪い思い出はないような気がする。思い出はすべて、いい思い出なんじゃないだろうか」「みんな今度は、なにかを思い出すために、クモモの丘に来た」

あとがき

終わりです。1時間にこれだけ詰めこめられるの、すごいなあ。濃縮された1時間でした。
5回観返してやっと書けた。できるだけ忠実に書いたのですが、省略しているところも多々あります。
たとえば、おまもりを無くしたシマリスくんに言った、アライグマくんの、「失くなったものはもう失くなったりしないだろ。ずっと失くなったままだろ」という台詞とか。これ序盤の台詞なんですが、思い出という主題に触れているような気もしますよね。過ぎてしまったことは失くなってしまったことで、忘れるのも思い出すのも、自分の問題で。思い出の問題ではないんですよね。思い出は、ずっと在り続けている。

『ぼのぼの』は、哲学的な漫画だとよく言われます。そういう側面もあるのかもしれないけれど、僕は懐疑的で。
哲学って、神を否定するところから始まるじゃないですか。けれど、『ぼのぼの』は、神を否定していなくて、むしろ寄り添うかたちで共にある。そう。作者のいがらしみきおさんにとって、神というのはとても大きなテーマです。他の漫画でも多岐にわたって神に触れようとし、自ら最高作だとよく仰っている『I』では、主題として神を扱い、そして答えを出してしまいました。
神的なもの、科学や論理を越えた、大きな存在。を作りだし物語を動かすことで、『ぼのぼの』では、それに近づいてみようとしているのではないかと思うんです。実際、クモモの木だけでなく、毎話不思議なアイテムが出てきます。

そう。音楽が素晴らしかったですね!『ぼのぼの』は動物たちで成っている物語だし、森が舞台なので、音楽って基本的に余分なんです。人為的なものを避けたくて『ぼのぼの』に触れている人が多いから。けれど、無いとやっぱり締まらないというか、気になりますよね。音楽。そういう意味で、完璧だと思いました。まったく邪魔していない。音楽の良いところだけを抽出して、世界観と綺麗に合っています。

あと、やはりいつもの3人。この掛け合いがたくさんあって良かった。ただ純粋に遊んでいるだけなので、物語として、不要といえば不要なんです。これはファンサービスなのでしょうか。もちろん、『ぼのぼの』を知らない層への、3人のキャラクターを知ってもらうための装置でもあるのでしょうが。どれも新鮮で、だけれど違和感のない、それぞれの個性がしっかりと出ていたシーンでした。

「待つ」というのは、この映画のもうひとつのテーマです。じっと待っていること。待ち続けること。クモモの木で誰かを待っているポポくんを最初に見たとき、ぼのぼのは、「クモモの木は悲しいことや辛いことを忘れるために来るところなのに、あの子はそういう風に見えなかった」と言っています。どんなひとが来るのか、そもそも、本当に来るのかどうなのかも分からないのに、大雨の日にまでじっとただ突っ立って待っている。なのに、悲しそうにも辛そうにも見えなかったんですね。
『かむろば村へ』という作者さんの他作品で、「人は何かせずにいられない」ことについて言及しています。何もしない状態が、1番辛い。ポポくんのお父さんは、それを知っていたのかもしれない。ポポくんに構ってあげられない。何でもいいから何かさせてあげたい、と思ったのでしょう。ぼのぼのが友だちになったとき、お父さんはぼのぼのに、「ポポと仲良くしてやってください」と伝えていました。「待つ」という、一見何もしていない行為でも、ポポくんは楽しかったのでしょう。ぼのぼのが海の向こうを眺めていた、そのときもきっと。
ぼのぼのは、いつもぼうっとしていて、身体も頭の動きも遅い子です。が、いつも楽しそうなのは、常に何かしているからなのだろう、と思います。反面、アライグマくんはひとりで家にいるとき、だらだらと楽しくないことが多い(この映画ではその場面はありませんが)。アライグマくんは運動神経がいいし、頭も冴えるのでそういうことには疎い。クモモの木にも興味なさげで、「なんであんなみじめったらしいところに」と相変わらず憎まれ口を叩きます。アライグマくんは、待つなんて面倒臭いことできないでしょう。
また話が逸れる。ええと、そう。ぼうっとしてみることもまた、この映画の提言なのではないかと思うんです。何かを思い出すことって、ぼうっとしていないとできないですよね。何かに集中しながら、昔のことを思い出すことなんてできない。エンディングで、クモモの木に座っているポポ親子も、一見、ただぼうっとしているように思えます。これまでの物語があったから、何か思い出すことに浸っているのだと分かるのですが。

「時間が解決してくれる」みたいなこと、よく言いますよね。それ、間違えていると誰も思わないでしょう。僕も、そういう経験があります。恋人に振られたばかりと、振られてから1年経ったのでは、やはり状態はまったく違っている。
生きていると辛いことのがたくさんある。苦しいことがたくさんある。何もかも忘れられず鮮明に覚えながら生きていたら、僕たちはどうなってしまうのか。想像するだけでも恐ろしい。
けれど、そこに反旗を翻しているんですよね。スナドリネコさんは、「その時の気持ちさえ覚えていられれば、何があっても生きていけるような気がする」とまで言っています。そして、「忘れさせる力」を失い、「思い出させる力」を得たクモモの木に、それでもみんなは集まったんです。それは、物語の最後、「思い出すこと」がどれだけ魅力的なことなのかを知ったから。
これって、結構すごいことだと思う。人生は、悪いことより良いことの方が少ないかもしれないけれど、威力はそちらの方が大きいということを知ったということだから。人生をまるごと肯定しているんです。何かの節に不幸を克服するものならたくさんありますが、全部肯定してしまう、そんな話、ちょっとない。
過去をすべて肯定することで、現在を、未来を明るく照らされた気がしました。だって、みんないつか過去になるのだし、過去は、みんないい思い出として残るのだから。死んでしまえば、みんな、みんな過去ですもんね。目をつぶって時間の経つのを待つより、むしろ様々なことを思い出さないか?と。
ポポくんにしろ、ポポくんのお母さんにしろ、かなりきつい過去と、現在を生きてきたわけで。だけれど、自分の生まれたときのことや、夫との楽しかった思い出を忘れないかぎり、何があっても生きていける。避けるのでなく、受け入れるのでもなく、追いかけてゆく。追い続ける。ことによって、もし現在が辛くても、きっと生きていけるんですよね。その辛い現在さえ、過去になってしまえば、いい思い出になるのだから。断ち切るわけじゃなく、心に留めておく。そういう生き方のほうが健康的だし、未来に臆することがなくなる。

ううん。うまくまとめられたかなあ。映画について書いたのは初めてだったのですが、文量が多いですね。やっぱり僕のあらすじだけ読むのと、実際に観るのとでは、まったく感じ方がちがうでしょう。ぜひ観てみてほしい。振り返って、何度も観たい映画でした。歳をとれば、また、受け取り方が変わるだろう、そんな映画でした。必ずまた観たい。忘れないようにしなきゃ。


原作 監修:いがらしみきお
監督:クマガイコウキ
脚本・絵コンテ:いがらしみきお/クマガイコウキ
制作:高橋一平/牧村康正
企画:辻井清/伊藤明博
プロデューサー:伊藤明博
音楽:ゴンチチ
CG製作:植木英則/松村傑
CGプロデューサー:豊嶋勇作
CGディレクター:毛利陽一
音響監督:鶴岡陽太
CG製作:デジタル・フロンティア
音響製作:楽音舎
音楽制作:ヒップランド・ミュージック・コーポレーション
製作協力:アイ・エム・オー
製作:竹書房
原作:いがらしみきお(「ぼのぼの」竹書房刊)

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