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DynamiteもK-POPも苦手だったからARMYになった話

2021/6 Butter新規というやつである。

2020/10 Dynamiteが流行りまくり、サビのダンスをタレントが覚える企画のバラエティをやっているとき、確かに私は苦手だった。韓国も、BTSも、そしてK-POPに簡単に負けるJ-POPも、CDが売れないと嘆いて束売りする日本のアイドルも。メイクや食事を韓国から輸入する新しいカルチャーも、明るい音楽やニュースも、なんとなく、全部。

2020から2年以上が経ち、良くも悪くも記憶は薄れていくように感じる。特に2年前はなんとなく先が見えずに誰もがちょっとだけ辛くて。だからこそ記憶も、きっと皆少しだけ意図的に薄めている気がする。昨年書いたままだった言葉は薄めずにここに残したい。

であわない2020

2020/8 Dynamiteという楽曲が発表されて、BTSは日本中の誰もが知るアイドルになったと思う。それでもアイドルに20数年間縁のなかった私にとって、韓国アイドルはより遠い存在だった。

この楽曲が、あまり好きになれなかった。…もちろん今となってはMVもかっこよくて、ポップで、かわいいけど。cutie ver.のダンスプラクティスは私の年間再生回数ベスト3に入るけれど。2020チョンジョングクなんてどの瞬間を切り取ってもかっこよすぎるけれど。(というか今より大人びている気がするのは何故だ)

当時偏見の塊の私には、ザ・アイドルミュージックのうちの、よくできたひとつに分類されたから。エモくて、軽くて、明るくて、楽しいダンスミュージック。アジアンミュージックのはずなのに、アメリカンな雰囲気で世の中を明るくしていた。そのどれもがなんとなく、受け入れ難い気分だった。
誰もが辛いってわかっているはずなのに、他国で、アイドルの彼らがなにを知ってるんだ、とやさぐれていた。(思い返せばコロナ禍に寄り添うBEに落ちる伏線でしかなく。私なんかより一変した彼らの日常を知り涙することになるわけだけれど。)

つまりザ・アイドル、と彼らを見事に見くびったことによって、数ヶ月後にどぷりと、沼に落ちることになる。

偏見まみれだったからこそ

2020以前にも、BTSは、ラインのキャラクタースタンプでなんとなく存在は知っていた。でもポップな色使いに馴染めなくて、K-POPはHIPHOP色が強くて、ギャルが好きなイメージだった。

韓国も旅行で行った際、韓国人の友達に案内してもらったりして好きだったけど、一般的に韓国人は日本人のこと嫌いだろうしなあ…とめちゃくちゃ昭和の頭で考えて、少し区切っていたように思う。
…どれも自分が属さないことで生まれる偏見だ。

変わってきたのは、NiziUで周囲と自身が盛り上がり始めてから。そして2020/9 ロッテコンを紹介され観てみると、NiziUは出ておらず、知っているアーティストはTWICEとBTSだけで。(今となっては沼に落としたこの友人もかなりの策士だと思う)
とはいえ唯一知っている曲のDynamiteはすぐに終わったし、アレンジバージョンであまり印象に残らなかった。濃いメイクが見慣れない私の目には、メンバーも覚えづらい印象だった。

ただ、MC中にサラッと歌うメンバーの歌唱力の高さが私の思うアイドル(未完成こそ愛嬌とするイメージ)とは違うことに引っかかって、友人に連絡したのを覚えている。

その後2021/6 韓国料理UBERに釣られて観たソウジュコン。アイドルソングだけじゃなく楽曲がいい。歌唱力は想像以上で、ダンスも上手いのに、スタイルも全員よくて。全て併せ持つ人もいるんだ、と素直に驚いて。

完全に魅了されていた
でもまだ私はひねくれている。

「消費されるアイドルという立場」は歌ダンスビジュアルの全てを持っていても変わらないのか、なんて受け入れない言い訳を考えていた。愛してると彼らがファンに言うたびに沸く歓声を理解できなかったから。彼らの人格のうちの、仕事の面だけを信じられる人が素直すぎる…と予防線を張りたくて仕方なかった。
恋愛、美貌、才能、羨望…独占欲。ファンからの無数の目はギラギラしても見えるはずなのに、明るい面だけを背負って、与えられた曲に合わせてステージに立ち続けることを求められる人形のような人たち…。それをアイドルと呼ぶと思い込んでいたのは、私だけだったのにね。

偏見まみれだったからこそ、
楽曲を調べながら聴いてみて、国連スピーチを観て、驚いた。彼ら自身が喋っていることに。

知ってみればあっという間だった。彼らは自分たちの考えを、葛藤をのせて歌っていて。時にヘイトに真っ向から立ち向かい、時に一致しないアイドルと自分像に苦しむ姿までも見せてくれていることを知った。

You can call me IDOL

今でも大好きな楽曲、IDOL。
You can’t stop me lovin’ myself
と力強く歌う彼らは私たちがどう見ているか、ファンとどう向き合えばいいか、私なんかよりずっと考えてきて、お見通しで、つよくて、したたかで、そしてチームだった。

ファンの愛なんて霞みたいなものを食べて生きているフリだと思ったら(ジンくんミアネ笑)、彼らが自身と向き合うためにファンがいることがある、お互いを利用しあう幸せのかたちに救われた。彼らがファンに願われていることのすべてを受け入れないことに、胸を撫で下ろした。
なにより、彼らとファンが愛を叫ぶ瞬間、お互い心からやり取りをしていること、信頼で結ばれていることに感動して、羨ましかった。

そして私自身を見つめる鏡であることも知った。
彼らに偏見をもつとき、私自身のコンプレックスが見え隠れしていること。
時に彼らを通して自らの背筋がシャンと伸びること。
一生懸命に何かをすきになることの素晴らしさ、たとえそれはすぐに自分のためにならなくてもいいこと。
自分自身を愛することの難しさ。
貰ったものは数え切れなくて、だからここでも言葉にしてきたと思う。

消費ではなく愛と呼びたい

とはいえ、彼らの歩む道のりをみて消費しているんではないかと思うこと…私が嫌悪した感情に囚われてしまうことはある。こっちの髪型のほうが良かったなと思うとき、痩せちゃって心配すぎると思った瞬間、行かないで、と出国を拒みたい気持ちになったとき、自分が辛い時に優しく寄り添って声をかけてもらう妄想をしたとき、ドキュメンタリーのドラマみたいな喧嘩のシーンを観てグッと来た時。

だって愛情は、きれいなだけじゃない。
不安になった2022のある時、尊敬する方からもらった言葉がある。彼女はたしかに、と続けてこう言ってくれた。

「アイドルは物語を売りにしている側面もあるので、そこに参加している私たちは特に注意して足元を確認し直さねばならないというのは事実だと思います。」
「それでも、推しを応援することで私たちの気持ちや世界が豊かになること、今まで考えなかった物事の裏側や背景について思いを馳せること、それは消費でなく愛と呼ばせてほしいと心から願います。」と。
ぽろぽろと涙と一緒にわだかまりがおちた気がした。

彼らのキラキラした瞳を通してみたアミボムの明るい光は、歓声は、歌声は、私の世界を広げてくれた。心をいっぱいに満たしてくれたあの感情を愛と呼ばせて貰えるなら、貰えるように、これからも愛し続けていきたいなと思う。

2020たしかに私は疲れていて、無理やり好転させようとする世界も、曲もアイドルも苦手だった。でも彼らに出会って、苦手だったのは私をみつめる私自身の目だって気づくことで、世界が広がる2021を送ることができた。
2020も自分自身も、今でもまるごと愛すことはできないし、必要な時間だったとは思わない。けれど、その時間があったから、苦手だったからこそ彼らと出会えたのは事実で。

そしてまだ私は途中にいる。

2023今の私は、これまでだったら考えもしなかった世界平和を心から願うし、向き合わなくてよかった罪悪感とも向き合うし、ちょっぴりでいいから気温が上がってほしいって空に呟く。そして、薄くても嘘くさくても、彼らが愛だけの降り注ぐ花道を歩くことを、心から今日も願う。

2023.1.16 北村



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