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歴史と文化の管理そして保存

 偉そうなタイトルですが、単に「地元の文化の痕跡が保存されて良かった」ということです。はい。

 私が住む高砂市は、北回り船の最後の主要寄港地として、また河川舟運が発達していた加古川水系の河口部の中継港として賑わった街で、江戸期には姫路藩の御用蔵があり播磨国でも重要な土地であったところ。街は堀で囲われ、城下町よろしく職能別の居住エリアが設定されるような「都市」でした。そして隣村の浜手には塩田があり、ここの技術が西へと拡がり赤穂へと伝わり、また海を渡って阿波国撫養にも伝えられたとかで、近世においては非常に重要な場所だったようです。

 そんな高砂の街ですが、明治初期に近代製紙工場が建ち(三菱製紙で今でも三菱は高砂に複数の拠点を構えます)、戦前までは塩田跡が軍用地や軍需工場に代わり新たな賑わいを生み出します。今でも近代建築や洋館の存在に、その頃の勢いを感じられます。

(旧高砂銀行本店・現在は商工会議所として使用中)

 そんな高砂の街に、崩れるのを待つばかり、な廃墟がありました。

 工楽邸。高砂の歴史を代表するような存在の、重要な屋敷です。
 高砂が水運で重要な港湾だったことは確かなのですが、その存在を大きく至らしめたのが、ここの家主の家系でした。
 生まれは漁民の子だったのが、創意工夫好きと廻船問屋の勤務経験と「高砂の土地」が功を為し、日本の帆船を大きく進化させた「新型帆布」の開発に至り、高砂で財を成した家系。新型帆布は加古川水系の交流を活かし、播磨内陸部の西脇辺りの織物産業との協働という形で生まれ、本当に「水運ありき」な街だったのです。そして、その歴史を今に遺すのが、工楽邸なのでした。そして、その水運との縁を示すのが、この建築様式。

 舟板塀、です。
 古くなった和船の木材を再利用した、港町で時折見かける建築様式です。工楽邸は帆布で財を成したにも関わらず、舟板塀で屋敷を建てるような、本当に「水運に尽くした」ような家系だったのだろう…というのが、この建物から透けて見えます。
 しかしこの邸宅、保存までには長い年月が必要でした…。

 これは2011年当時の工楽邸。崩れかけている屋敷、ここからは見えない庭にはうず高く積まれた「モノ(一般的にはゴミと認識されるモノ)」が…。
 工楽家の末裔が暮らしてらしたのですが(何度か話をしました)、まあ、はっきり言えば「耄碌した年寄り」で、まともな判断能力はないけど財産(屋敷)を継続する人として無視はできず、この人がいるから「(行政は)何も出来ない…」な状態で、半ば朽ちるに任せざるを得ない状況だったんですよね…。

 それが数年前、とつぜん動き出しました。事情を知っていると「あぁ、工楽家の末裔の方に、何かしらのコトが起こったんだな…」との感傷を呼ぶ事象でしたが、その反面「あぁ、これで『半端な相続人が居なく』なり『行政等が想定する保存像』を整えられる状況が揃ったのかな」、と…。
 いやらしい考え方だけど、ね…。

 あぁ、きっちり、工楽邸が、保存前提で整備されてる…。それだけでも結構感慨深いんですが、その過程で「石」がきちんと扱われているのが、ちょっと嬉しく…。

 高砂の建築での特徴は、石なのです。
 高砂の街から数キロのところに、古墳時代から石棺や建築用に石を切り出していた所があり、龍山石として一部では有名な、御影石系の石材なのです。この石材を、高砂の街はふんだんに使っているんですよね。ほんと、そこらじゅうの溝の縁石や家の台座が、古墳時代からの石材なのです。

 今回は、たまたま当日の帰宅経路のバスの時間が合ったので経由することになった高砂の街ですが、こんなの魅力のうちのほとんどを紹介できていません。あぁ、「たかさご自慢さんぽ」を、したいなぁ…

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