見出し画像

ブルシット・ジョブ #24

◆みのりにはグーンが必要

うえむら まずは「絶対的な価値尺度を明らかにすることの不可能性について」というタイトルで、ニーズによって価値を計ることは困難だ、ニーズは主観的なものだから、という話でした。P258で私がコメントしたかったのは、「ひとがなにを欲求すべきかということについて判断しても無駄であると結論する。それよりも人びとが欲求していることを受け入れ、その欲求の追求にあたって、どれだけ効果的にふるまっているかを判断する方がよい」という部分について。

友人たちのLINEのトークルームではみずほ銀行が障害を惹起するたびにいつもイジっているのですが、そこで思ったのは、確かに「みずほはクソ」だと。「合併した後のガバナンスもクソ」「合併してからも爺たちが権力争いするだけでビジネス上のアップデートをできていないのもクソ」なのは間違い無いけれど、でも、これはこにしさんから反論をいただければと思いますが、みずほの非効率迷宮型発注に、SIerだって唯々諾々と従っているやんけという。

こにし これって仕事を貰っている側が何も言えないということですよね。彼らのロジックに絡め取られるしかない。絡め取られなかったら報酬を貰えない。当たり前の話ですよね。違うことをいってしまうと「何を外注風情がテキトーなこというとんねん」とオエライお爺ちゃんたちに怒られてしまう。

うえむら しかし社会的価値の創出という側面で言うと、SIerは本来「それはオカシイですよ」と窘めることが期待されている。

こにし そこが今めちゃくちゃ社会的に批判されていますよね。伝統的なSIerたちはデジタル庁関連で官僚からシバかれているらしいですが、ただの御用聞きになってしまっていて、本来SIerが期待されている「クライアントがアタマの片隅にあるけど具体化できていないアイディア」や「アタマのなかにもないけれど将来的に事業上の価値を高めるようなこと」などをデジタル技術をつかって提案していく役割を全く担ってこなかったよねということが批判されています。

ただ、難しいと思うのですよね。プレイヤーが変わっているだけだと思っていて、例えばみずほ銀行の頭取に誰が文句言えるんですかと。はじめから否定されることがわかっていることを、大の大人が集まって時間をかけて考えるのは完全に時間の無駄です。ある意味、経営コンサルタントと呼ばれている人たちや、ITグランドデザインをしている、ITの中でも超上流の仕事をしている人たちが、例えば三行合併するときにその後のPMI(ポスト・マージャー・インテグレーション)の在り方を考えて提案するのが本来の筋だと思うし、普通の企業ではそういうことも行われているのだろうと思うのですが、そういうガバナンスが極端に効きにくい組織構造なのだろうなと、外野からは見ていましたけれど。

うえむら みずほというキメラ組織だかヒドラ組織だかの特質なのだろうなと推測はするものの、一方でSIer側が「おまえら社会的責任果たしていないやろ」と批判されたときに「いやそれはでも、ビジネスですから、クライアントさんのニーズに基づいて私たちは仕事させていただいておりますから」と応えるのは逃げだろうと思う。

こにし SIerに説教するとしたら、目の前のクライアントが勧銀だろうが興銀だろうが違いはなくて、クライアントのためを本当に思うなら、その向こう側にいるお客さんのことを考えないといけない訳ですが、ただそんなことはなかなか言えない。仕事を貰えなかったら100億とか1,000億の単位で損失が出てしまうので、とてもじゃないけど文句なんて言えない。首根っこを押さえられながら悪口を言うのは無理。地獄突きされるだけなので。そもそも関係が非対称なのですよね。

うえむら そこはカルテルと言われるのかも知れないけれど、全てのSIerがクライアントにとって耳の痛いことを言うプレイヤーになれば、誰に頼んでも同じになるから、不都合なことをいうプレイヤーだからといって切るに切れなくなる。業界としての規範意識を高めていただければ、クライアント側を導いていくことができるのではないかな、と外野としては期待する訳ですね。

こにし しかし、やはり発注している側のリテラシーに依存しているということですね。逆にみずほではこういう問題は起こっていますが、MUFJやSMBCも同じような合併を体験して、マルチベンダ対応のリプレイスを行ったにもかかわらず、同様のシステム障害が大規模に生じているわけではないということも考えていただきたいと。他の銀行ではこの問題は起こっていないですよね。参画しているベンダーのリストはあまり変わらないはずなのに。

うえむら 何故なんでしょうね。それは彼らにはリテラシーがあったからなのか。

こにし 中の人にしか分からないですが、一つの理由としてありそうなのは、中の人で、三行で共通でガバナンスを効かせるような素地がなかったとか、あるいは中で抱えているIT人材のリテラシーにおいて無視できない差があったのだろうなとは想像に難くないですね。

うえむら 前半では「そもそもニーズはリテラシーに左右される」「ニーズというものは揺らいでいる存在だ」という話をしていて、後半は「ニーズというものは操作され得ますよね」という話でした。第2章ではグーン(脅し屋)という「脅すことによってニーズがあるように見せかける存在」であるブルシット・ジョブの類型もありました。

こにし ある意味みずほの事例ではグーンが求められているような気もします。

うえむら つまりSIerはもっと「社会的価値」を押し付けるグーンにならないといけない。

こにし みずほの事例のように買い手側がグーンになると、発注の内容もコロコロ変わるし、それに従っていたら絶対にまともなものができないような状態で。

うえむら だからみずほに対しては売り手側がグーンになることが求められていたということだね。

こにし ニーズというものが主観的で可変的なものであることから生じている問題な気はします。上流コンサルの価値観で言われるのは、「客が言うことは変わるかも知れないけれど、社会的な問題や不作為による弊害は人が代わっても変わることがない」「真のニーズはそんなに変わらない」というところがある。みずほのケースだと担当者が言っているニーズと、誰も口にしないのかも知れませんが銀行として本来持っているニーズとは分けて考えた方が良くて、目の前の人の言うことだけに従っていると、結果的に崩壊してしまったし、彼らの中でも事実隠蔽が横行していたようですし。最近だと要件定義書がなくなっていましたとか。

うえむら なくなってたね(笑)

こにし 何を言うとるねんこいつらと。社会的には「またみずほか」みたいな感じでした。

◆ハピネスインデックスの教師データとなる私たち

うえむら 次の第2節は、みずほの本来のニーズであるはずの「社会的な価値」を考えるに当たって、すべてのものごとは「価値(value)」として必ず数値化できるに違いないという神話があるけれど、実際には「価値(value)」と「諸価値(values)」が複雑に絡み合っているから、その区別を試みていこうという話でした。

しろくま P265で聞きたかったのは、「生産的労働」「不生産的労働」「再生産」という区分のうち、「再生産」の例として挙げられているのが家事労働や教育とあって、それがしっくりこなくて、再生産とは何だろうと思いました。投資が再生産だとしても、塾とかベネッセは企業活動なので生産的労働だという感じがしていたので。

うえむら これは注釈5を見ていただければ分かりやすいかな。再生産とは「生産の手段を生産すること」だと定義されている。

しろくま 出産とか。

うえむら 出産は人間という生産の手段を生み出すし、教育は人間に生産能力を付与するという意味で再生産になっている。ただこの定義で言うと、生産の最終果実って何なのかと思いますよね。例えば鉄道会社が輸送というサービスを提供しているのは、突き詰めて言うと最終果実の達成に向けた手段に過ぎないのであって、輸送自体は最終果実ではないのかも知れない。だとすると輸送は再生産なのか、という話になる。そこまでいくと直観に反しますよね。どこまで区別されるのかがこうした定義だけだと曖昧になっているのはおっしゃるとおりだと思います。

こにし だいたいの経済活動が「生産のための生産」になってしまいますよね。最終的に製造物としてクルマが出てくるとしても、クルマができるまでに膨大なサプライヤーがいて、彼らが部品を製造するための工作機械もあって、ものすごく巨大な市場が名古屋周辺にある訳ですが、あれはこのロジックで言うと再生産になってしまう。めちゃくちゃ違和感がありますよね。人間を再生産するということに限定してくれればまだ分からなくないですが。

うえむら ここでは人間に限定しておきましょうか。

しろくま 注釈5だと物理的なインフラの維持も含まれてしまいますね。

こにし そこは区別する必要があるかもしれないですね。保守とかを再生産と言われると違和感があります。

うえむら 再生産というと一般的には出産をイメージするので、そうしたイメージを分かりやすくする定義と考えておくのがよいですかね。

こにし それはわりと肌に馴染んだ定義な気がします。そこにフォーカスを当ててくれた方が後々のケア労働とも一致していて分かりやすいとも思います。

うえむら 結論を先取りすると生産とケアがあたかも二分されているようになっているけど、本当はケアだって生産のための手段である場合もあって、「価値」と「諸価値」だけでなく「生産」と「ケア」も複合しているという複雑さがある。

P264に戻ると、「価値」は数量化できるに違いないという神話に対する批判は、『なぜ経済予測は間違えるのか?』デイヴィッド・オレルという本に似たようなことが書いてあります。昔東京にいたときに、経済学部出身の同僚に「経済学なんて文系が訳の分からん情緒的なこと言って、株式市場も情緒で動いているし、感覚で言っているくせにあたかも学問がそこに成立しているかのように見せかけているけれど、単なる文学だよね」と吠えたところ、「違いますよ」と薦められた本で、「文系じゃなくて理系です。経済学というのは古典数学や古典物理学が描いている美しさを経済の上に再現しようとして失敗している学問です」と諭されました。

こにし 経済学はめちゃくちゃ高度な数学を使っていますから理系的だとは思います。数字を使っているかどうかで文系と理系を分けられたくないですが、使い方では、経済学は同じ文系の目から見ると理系的ですね。数学者が経済学に転向することもありますし。

うえむら そこで念頭に置かれているのがホモ・エコノミクス(合理的経済人)という仮説で、経済モデルに沿って完全に行為する人間たちが存在することを前提として経済モデルが構築されている。しかし、実はそうではなく、人間はすごく不合理な行動を取ることが行動経済学などの知見でどんどん明らかになってきています。リスクとリターンの比較もちゃんと判断できないし、感情に基づいて動くし。という中で、これまでの経済モデルなんて成立し得ないというのがここ10年20年の潮流だとは思います。

こにし 新古典派経済学が想定している合理的経済人は片方の場で研究しつつ、それが経済学という分野自体の有用性を損なっているとは思わなくて、行動経済学的な、社会心理学的なものと組み合わせも並行して研究されている。例えば短期的に合理的な判断によってもたらされる囚人のジレンマなんかが経済学のロジックに織り込まれていくことで、合理的ではない個人の判断や、それによって帰結するどう考えても合理的ではない社会的状況が、どんどん高度化されて説明されていっている感じがありますけれどね。学問分野自体が間違っているというか、間違っていることを認めながら進歩しているとは思います。

ただ物理学や化学のような実験室的なサイエンスとは社会科学は一線を画していて、人間の行動なんて実験室的にはならないですよね。お金の動きとかはまだマシだと思いますが、思っても見ない行動を取られるし、人間の中にも色々な属性の人がいるのを捉えられていない。それでいて学問としては何かしらのアウトプットを出すことを求められているので、実験室的な科学よりは精度が出ない。

うえむら 合理的な経済人というモデルが修正され、行動経済学がそうやって突き詰めていこうというモチベーションになっているのは、量的な比較をしたいということですよね。価値を比較したい。しかし、実はそれはモデルを形成するよりもボトムアップでやっていったほうが良いのではないかという時代になっているようにも思います。この章の最後にベンサムの功利主義が登場するけれど、AI時代にはこれまではあくまでフィクションだった「最大多数の最大幸福」が測定できるようになっている。AIが個々人の快と感じる選択肢を浮き彫りにすることで、測定された最大多数の最大幸福が量的な比較に馴染むようになっていく。価値がボトムアップで現れてきていると。そうすると経済学の行っているホモ・エコノミクスを修正するトップダウンの取り組みの役割が、なくなりはしないにしても薄くなっていくのではないかと感じます。

こにし とはいえ、例えばAIがハピネスインデックスを仮に計測できるとして、AI自体がそういうインデックスを自分で作れるわけではない。その背景にある複数の変数に基づいて判断しているのであって、そうした変数は人間が選ばなければならない。だからどういう要素を切り出してそれを一つの指数にするのかというところに思想は反映されると思いますし、その元になっているのは従来的な経済学や行動経済学によって修正されたモデルに求められると思います。

うえむら とすると、今の時代の人間が担っている責任ってめちゃめちゃ大きいと思いませんか。近代以前、近代以降にずっと形成されてきた議論を人間の脳の中にインテグレイトして今保存しているけれど、それをAIに教師データとして食べさせている。私たちが。やがてAIによって計測する時代になっていったら、後の時代の覆すことができないような規範としてAIに刻み込まれるとすると、今の時代に生きている人間の責任はめっちゃデカいなと不安になる。

ハピネスインデックスは絶対的なインデックスというよりは選択の積み重ねであって、「切り替えを行ったら1人死ぬか5人死ぬかを選べるとき、あなたはどちらを選びますか」というトロッコ問題には無限のバリエーションがあって、1人は医者で5人は囚人かも知れない。1人は子どもで、5人はおっさんやじいさんかも知れない。そこで切り替えをする/しないは、人によってストレスの大きさが異なると思うけれど、AIがそれを計測することによって、一番社会的ストレスが小さい選択が行われていく。

こにし AIが意思決定するにあたって、インプットを与える認知的なものの計測も進歩していると思います。あることをストレスフルと感じるかどうかを微振動で感知できるようにするとか、AIが個人の行動を計測して、「これをしたときにこの人はストレスを感じる」「よってもってそういうことは避けなければならない」と判断できるようになってきているとは思います。

また、トロッコ問題で言うと「変える」ことがストレスという要素はありますよね。選択を迫られることそれ自体もそうだし、選択が過去の慣習を変える場合は、今決めたものが将来にわたって影響を与えることへのストレスもあるでしょう。今決めたことが規範化されて変えづらくなるならば、過去にいる人たちの責任は重いのかも知れない。

例えばGDPもそうでしたよね。経済的な価値や国の豊かさを計測するために使われている指標ですが、ある意味すごく批判されているものでもある。測れないものも多い。だからGHPとか言い出すような人もいましたが、最近は言わなくなりましたね。だれもブータンの話をしなくなった。

うえむら ブータンの流行は終わりましたね。

こにし GDPは結局まだ使われている。変えようという議論はありつつ、何か大きいものを変えるのはめちゃくちゃストレスだなと思いますね。現代の人々が作ったいい加減なハピネスインデックスを「変える」ために、将来の人は頑張ってください。

うえむら テキストの論点で言うと、「価値」は計量可能で交換可能、「諸価値」は交換不可能だという差があって、両者は複合されて峻別不可能とされている。「価値」は計量可能だ、という価値観に貫かれている今後の時代の展望をなんとなく思い描いたけれど、でも「諸価値」は測定不能、交換不能なものとして生き続ける。それって何なのか、ということにテキストでは答えが出ていないし、まだ誰も答えが出せないけれど、少なくとも「資本主義」というイデオロギーではないよねということだけを言っている。

こにし 測れないからこそ慣性でずっと動き続けるものでもある。

しろくま 主観的ですよね。

こにし 数字ならば毎週・毎月なにがしか出てくるので、その数字自体が間違っている可能性はありますが、自己反省能力がある。一方で測れないものには反省や修正の機会がないし、中身がなんなのかと問われると急に困ってしまうということだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?