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ブルシット・ジョブ #27

◆投げられたコーヒーカップをケアリング

うえむら 8節は「労働に携わっている人が尊敬に値する」という、労働包摂と社会包摂が密接に分かちがたく結びついている実相を確認して終わった感じですかね。

こにし P312に書いてある「ほとんどの人びとの尊厳や自尊心といった感覚は、生きるために働くということのうちに囚われている」という1はなんとなく分かる。起きている時間の半分以上は平日働いているので。しかし2の「ほとんどの人びとはみずからの仕事を嫌っている」はだいぶ盛っているなと思いながら見ていました(笑)もともと1/3くらいやゆうてたやろという。

うえむら 先程おっしゃったような、界隈の人間が吠えているだけという印象に繋がっていくから、主張のトーンは大事ですね。

こにし 自分の活動に誘導しすぎなのではないかという。P314の「労働者はみずからの仕事を嫌悪しているがゆえに、尊厳と自尊心の感覚を得る」もそんなことないやろという。わりとみんな仕事好きだと思いますけど。

うえむら 確かにな。「嫌悪しているが故に尊厳と自尊心を得る」というのはパワーワードやな。

こにし はい。主張としてのパワーはあるのですが、そうでもないのではないかという。会社が嫌いな人はまあまあ居ると思うのですが、仕事が嫌いという人はそんなにいなくて、だいたい人間関係が悪いこととかに依拠している気がします。これを言うならもう少し定量的な根拠がほしいですね。

うえむら しろくまさんは仕事は好きだったの?

しろくま 好きですよ。

うえむら そうか、辞めた理由は社長が原因だったよね。

しろくま そうですね、人間関係が大変だったからですね。

うえむら だから仕事自体は別に嫌いではなかった。

しろくま はい。

うえむら なるほどねー。ぼくはそんなに仕事好きではないけどね。逆に人間関係はすごく良いけれど。

しろくま それが大事ですよ、やっぱり。

うえむら みんないい人だし、いい子たちだし。でも仕事を通して社会の実相を理解したり、騙されないよう自らを涵養したりする意味では勉強になるけれど、だからといって、それは「原因になれない惨めさ」なのかも知れないけれど、何か直接的に役に立っているという意識がないと、長続きしないのではないかな。どうかな、それは単に自分が最近やる気を失っているだけなのかもしれないけれど。

しろくま 今回の章を読んでいて思うのは、私は本人がどう思うかが基準なので、構造的に他の人の目から見てブルシット・ジョブかどうかは正直どうでもよくて、本人がブルシット・ジョブだと思って惨めさとかそういうものを感じるのであれば問題ですが、こんなグレーバーさんに構造的に定義されるようなものでもないと思っています。

うえむら なるほど、「おまえが上から目線で私を定義するな」ということね。

しろくま そうです。結局主観的でしかないという感じがしていて、ブルシット・ジョブの定義に落ち着いてもいないじゃないですか。この主張も結局グレーバーさんの主観な感じがするので、最後まで納得がいかないです。

こにし 本人の主観として、自分のやっていることに対して社会的意義が感じられなかったり、それに対して不満を持っていたりということを、もうちょっと説得力のある形で出して貰えたら、なんとなくそれがもっと問題だなと共感できたり、みんなに理解して貰えたりする気がするけれども、それを実際の数字というよりは、学問的なやり方だとは思いますが、歴史的にそれを説明しようとしている。あるいはブルシット・ジョブの捉え方自体を途中ですり替えているところもある。そのあたりが腑に落ちていない気はします。だから押しつけがましくなっている。

ただ「主観の問題でしょ」と言って、「客観的に定義されるものではない」と言ってしまうと、社会運動にしている側からするとイシューにしづらいだろうから、そういう持って行き方をしたくないというのも分からなくはない。団結に繋がらないので。

うえむら グレーバーさん自身が『負債論』を著すなど、歴史的に説き起こしていくスタイルがウリの人物なので、ここで歴史的に説き起こしているのは真骨頂なのだろうけれど。

こにし ところどころでバイアスがかかっていて、猛烈に切れ味が良いところは良いのだけれど、クビをかしげるところも多い。

うえむら 牽強付会だよね。強引に引きつけてしまっているところがある。

しろくま 途中の社会運動の話の時に出てきた原発事故のように、大衆から見ても分かりやすい事例があまりないですからね。

うえむら 政治学用語では「政策の窓」というのですが、何か象徴的な事件が起きるなどして政治問題化することができたときに、始めて政策的な対策をとることになる。例えば原発だったら原発事故だし、過労死だったら電通の働かせすぎだし。ブルシット・ジョブに関して「政策の窓」が開くような事件が生じるとしたら、どういう事件なのかな、というのはあるよね。

しろくま ブルシット・ジョブの問題って個人の目で見ると、「個人がやる気ややりがいを喪う」という側面と、「社会的に見てそれが搾取になっている」という、その2点なのですかね。

うえむら 搾取でもあるし、「イノベーションを創出するようなクリエイティブな部門に割く人的なリソースが無駄づかいされている」というのも問題とされている。しかしその被害は全ての人に直接的に帰着しうるものではない、つまり若い女性が過労死する訳ではないから、政策の窓にならない。よって学問的に指摘するしかアプローチがとりえない。

こにし どちらかというと個々人にとっては、ヒマですからね。

しろくま イノベーションが起きていないからといって、直接的にどうということはない。

うえむら そう。イノベーションが「起こらないこと」が問題なのであって、問題が「起こっている」わけではない。だから証明が難しい。

こにし 「ブルシット・ジョブという体制が維持されること」が問題だと言いたいのだけれど、その程度であれば簡単にガス抜きができてしまう。週末にゴミ拾いに行くだけでも良いし、解決策がとても簡単になっている。ただそれが根本的な解決策に繋がっていかないので問題は保存され続ける。

うえむら そう。「クリエイティブによる人類の発展」という目的は阻害され続ける。だから合成の誤謬ですよね。

こにし 長期的に見ないと分からないというのと、象徴的な出来事が直近で起きるわけではないという。

ちょっと書いている人がおっさんくさいなと思ったのは、ケアリング労働がアンペイドだったり、そもそも報酬が高くなかったりという話がされていて、そこに対して女性が入っているという話があった。

うえむら 女性労働の話していたね。P305か。

こにし 男性中心の書き方をしているから、フェミニストは怒りそう。産業側からすると、そこで儲けている会社もいるのですよね。上手く事業化することができれば、ある意味めちゃくちゃニーズがある市場なので、それを一概にアンペイドと言ってしまうのはかなりセンスに欠ける気がします。

むしろケアリング労働がある種の産業にとってラストリゾートになっている部分もあるので、医療や介護や、これまで家族や親族が担ってきて市場化されてこなかった分野が市場化されつつあり、メーカーや医療機関が事業を創造したり、現に行ったり、保険制度によって国のお墨付きを与えて、市場化によってどんどんペイするようになってきている事実は、ずっと生産と非生産という話をしてきた中で、そう簡単ではないと思ったところですし、だいぶ女性差別的な記述があった気がします。

うえむら 歴史の話をしている中なので、それは過去においてそうだったという文脈に過ぎないのかなとも思ったけれど、将来的にもその構造を温存しようとしているのではないかという疑念もあるかもしれないですね。

こにし ここでケアリング労働について論じている程、市場化されていない訳ではないし、今が一時的に市場化されていない状況に過ぎない。国によってかなり違うでしょうけれど。日本や大陸ヨーロッパでは産業になっていないかも知れないですけれど、北欧の場合は国が主導して公共事業化して公務員として全員雇っていたり、アメリカだったら低賃金サービス労働者として市場化されていたりする。

うえむら P308で言っているのは、「労働の価値をそれが「生産的」であるかどうかで考えること、生産的労働の典型を工場労働として考えることは、こうしたケアにかかわるすべてを抹消してすませてしまうことである。」これは、生産という切り口でみると労働の没人格化が生じるけれど、ケアという視点でみることによって人格が回復するのではないかと示唆しているよね。だからブルシット・ジョブが労働の没人格化によって労働者を傷つけているとするならば、ケアという視点の導入によって人格を回復することでブルシット・ジョブ化を脱することができるのではないかということを主張していると読んだのだけれど。

具体的に言うと、銀行に勤めている人たちはコーヒーカップを投げつけてくる上司がいると。その上司のパワハラ・モラハラに耐え続けることがケア労働なのだという話をしている。それ自体が単なるマッチポンプで何の意味もないとは思うけれど、一応形式上はそういう配慮があなたの報酬の源泉だと捉えることも可能ですよね、という慰めを行っている気がしました。だからケアが市場化されているかどうかというより、労働の一側面としてケアが生じているという話だと思います。

こにし ケアリング労働を広く捉えるとそうだと思います。業務自体がケア労働ではなくても、対人サービス的な側面が全てではないけれど、一部にそういう他人に対する思いやりを必要とする職業はそうだと思います。

うえむら 伝統的なケア労働と、実は非伝統的だけどケア労働だよねという分野がありますよねということですよね。

こにし そこは区別して喋ってほしかったですね。それで前者、伝統的なケアはわりと市場化されてきているし、今後はラストリゾートとして市場化が進んでいくと思います。

うえむら 非伝統的なケア分野があるのではないかという視点を導入することで初めて、プラットフォームビジネスのような搾取業態にも優しくなれる。彼らも優しさをもって、例えばマッチングアプリで、結婚できない男女にアプローチするという意味でのケアを行っていると捉えられる。これを読んで初めてプラットフォームビジネスに優しくなれました。しろくまさんがずっと言っていた「誰かに必要とされているから、それが価値だ」という意味がやっと了解できました。

こにし しかし、コーヒーカップ投げつけられている側も、コーヒーカップを投げつけられることを主たるジョブとしてお金を貰っているわけではないですよね。

うえむら そこは無駄だよね。そもそもコーヒーカップ投げるなよという話ですが。

こにし 別にコーヒーカップが投げられなくなったからと言ってその仕事がなくなるわけではないですし、コーヒーカップを投げつけてくる上司と1on1しなければならない局面も、色々ある仕事の中のごく一部の描写に過ぎないですよね。そこだけを切り出してブルシット・ジョブについて語るのは違う気がします。

うえむら そういう意味では、コーヒーカップじゃなくて、融資するというところで、例えば投資信託であればじいちゃん・ばあちゃんの財産を結果的に搾取しているのだとしても、そのプロセスにおいてじいちゃん・ばあちゃんの話し相手になるというケアを行っていたと。

こにし 業務の形態がそういう欺瞞的な業界だとしたらケアリング労働でありブルシット・ジョブであり、どうにもならない気はするけれど、やっぱり盛られている感が否めないですね。みんながみんな某社みたいな会社だったらそうなのでしょうけれど。もう少し誠実な社会に我々は生きている気がしますけどね。

うえむら そういう誠実性が実態として喪われているという問題意識が著者にあって、それは同意するのだけれど、もう少し明晰な言葉で言ってくれないと文句をつけているだけになってしまうよね。

こにし 主張するなら数字で喋ってほしいですね。分かるけれど腑に落ちない。

うえむら このままだとついでの当たり屋みたいに金融機関を虐めているから、そこがちょっと、ということでしょうね。

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