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【読書感想】2084年のSF

第二次世界大戦後の1949年、ジョージ・オーウェルは1984年を舞台にしたディストピア小説を発表した。それから100年後の2084年を舞台に、現代のSF作家たちはどんな世界を描くのか? ハヤカワSFコンテスト、創元SF短編賞受賞作家たち、本屋大賞受賞の逢坂冬馬、多ジャンルで活躍する斜線堂有紀ほか23作家による、それぞれの2084年。『ポストコロナのSF』に続く日本SF作家クラブ編の書き下ろしアンソロジー第2弾

『ポストコロナのSF』を読んでハヤカワのインナーサークルに入った気になった読者たちは、訓練されたかのように書店で見かけた第2弾アンソロジーを衝動買いします。超話題作家の逢坂冬馬先生も名を連ねていて興奮は最高潮。早速逢坂先生の作品から読み始めます。おおー、キレイにまとまった。でもちょっと物足りないな。次は『百合SF特集』で存在感を示した斜線堂有紀先生の作品を。おおー、面白い設定。でもちょっと踏み込みが浅いな。

なんかその繰り返しでした。①『1984年』の原典を参照した作品、②「2084年」という数字を切り口にした作品、③テクノロジーや社会の変化にひとひねり加えた作品に大別され(複数併せ持つ場合もあり)ましたが、どの作品も中心的主題を世界観として構築するのに目一杯で、説明書きか、ストーリー展開か、細部のこだわりかを犠牲にしないと紙幅が足りない中を苦闘しているようでした。読者はそうした作者の苦心に思いを馳せ、同情もするのですが、物足りなさが残ってしまうと。『ポストコロナ』に比べて寄稿者数が多すぎるので仕方ないのだとしたら、ハヤカワが受賞させた作家たちに活躍の場を与えようと焦っている感じも受けます。

一方で、ある収録作品においても引用されていたボルヘスのテキストには、以下のような記述があります。

長大な作品を物するのは、数分間で語りつくせる着想を500ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。

『伝奇集』J.L.ボルヘス(岩波文庫、1993年)P12

どの作品も長編を築くことが出来そうな設定を盛り込んでいながら、それらのエッセンスを短編としてダイジェストできるのは贅沢な体験なのかもしれません。もっというと、そうしたコンテンツ消費の態様こそが、ファスト映画時代のオーソドックスになるのかも。

【仮想】

1.福田和代「タイスケヒトリソラノナカ」

VR依存症患者がケア病棟から誘拐され、生身の肉体を干上がらせる"兵糧攻め"で現実への追い出しを迫られる話。誘拐事件を捜査する警官が80代の高齢者である点は面白い設定だが、あまり生かされてはいなかった。ストーリーも単線的で意外性は無い。
民間サービスっぽい⦅羽衣⦆がマイナンバーと連携されて、生身の死とともにVRアカウントが停止され、友人に通知される、という流れはもう数年のうちには実現しそう。
P36「誰にも迷惑をかけていないというが、あんたの幸せは、彼らの犠牲で成り立っている」はドキッとする。VRの夢の世界に耽溺できる富裕層と、現実世界に取り残されて彼らの身体ケアを強いられる貧困層、という分断が垣間みえている。現実もまた誰かがつくりあげた仮想ではないのか…とか抽象的なこと言ってないで、せっかくなのでこのあたりの分断、新しいレフトビハインドを掘り下げて欲しかった。

2.青木和「Alisa」

スマートホームシステムの≪Alisa≫が普及した社会が舞台。主人公が日常生活において利便性を享受するスマートペットや虹彩決済システムなどが徐々に不調になっていく序盤は不穏な雰囲気。
そこまでは、やがて起こるIoTテロがその日常を崩壊させる、パニックものの混乱を期待していたのだが、後半に至って開発者の女性を誘拐して人質にし、システムの停止を要求するというアナログな犯罪が展開され、ついにラストは、監視システムの先鋭化によるデジタルスカーの被害者が「ナイフで突き刺して」復讐を遂げる、徹底したアナログ物語だった。
好意的に読むなら、デジタルに日常を明け渡しても、最後に残るのはアナログの身体だ、というテーマに読めなくもないのだが、そうであるなら、デジタルが動揺し、崩壊する過程をもう少し丹念に書いた方が説得力があると感じた。

3.三方行成「自分の墓で泣いてください」

近いうちに人が死ぬ家の近くに現れて泣くアイルランドの妖精バンシーと、サプライズニンジャ(サプライズニンジャが登場人物を斬り捨てて回った方が面白くなるシーンは面白くない理論)が、葬儀と死後人格が渋滞している仮想空間で無限に湧き出して個人のハッシュ戒名を書き換えるゾンビと闘いながら「あるのに誰も利用しない機能」の全種類式葬儀を挙行する話。
荒ぶる手裏剣を投げる左手を、理性の右手が必死に抑え込みながら、話を終わらせるキャラのはずが話を引き延ばすボケ役のニンジャと、P81「感情を強制するなら金を払ってください」やP84「そうやって見えてる点と点を結んでわかったつもりになってください」など辛口ツッコミ役のバンシーの掛け合いが軽快で、意味が分からないのだが勢いに押されて読み切ってしまう。面白かった。

【社会】

4.逢坂冬馬「目覚めよ、眠れ」

タイトルの調子が似ている『同志少女よ、敵を撃て』は文庫化したら読もうと思っているのでまだ読んでいない。
人が起きたまま睡眠できるようになった無眠社会で、システムに適合できず睡眠せざるを得ない主人公。技術の進歩によって、新しい”落伍者”と”差別”が成立していく思考実験が描かれており、その推移を追うのはディストピアフィクションの王道とあって興味深い。
P101「本来干渉できないところまで・・・」やP109「過剰適合」が睡眠世界への潜入という「適合遅延」と同症状になっていること、あるいはP123クライマックスで16時間の現実と8時間の睡眠という選択肢を人々が選ばなかったことを「残念」と評するのがそこまでの主人公の境遇と整合的かどうかなどが気になったが、メインテーマとなる超高度生産性社会への疑念、オチに向かっていくロジック、ブラザーフッド、「フォーマット化された安楽死映画」「政府広報」「新しい哲学」といった点描まで注意が行き渡っており、世界観強度は充分高かった。
白眉はP106の「この超高度生産社会のなかで、福祉のお世話になるってことは公共の敵なんだよ!」であるが、ただしその前段で「数少ない単純労働的職種、業種は、いずれも長時間勤務を売りにして成立しているから(システムに適合できず睡眠が必要で、長時間労働ができない主人公には就職が)難しい」としているのが議論を呼ぶポイントだと思った。
本作における2084年の超高度生産社会は、福祉をベーシックインカムではなく、それと対置される政策方針としてのワークフェアによって供給していることになるが、そこで準備されている「労働」もまた、社会全体を覆うイデオロギー、すなわちフォーディズム的な「数えられる」生産性と整合的であることを求められている。
こうした2084年の姿は、現実の2022年の、果たして正しい延長線上にあるだろうか。現実の2022年は、コミュニケーション能力を「人格」における至上価値と位置づけ、共感力や視覚的魅力に劣る人々が「不適合」となり「落伍」しているにもかかわらず、コミュニケーション能力に裏打ちされた情動労働が多数を占め、フォーディズム的な労働はどんどん自動化されて廃れていることで、そうした人々を”労働”を経路として社会包摂することが困難となる隘路に入り込んでいる。
そうであれば、本作におけるハローワークは、単純労働による包摂が難しい主人公に対して、ますます先鋭化している(であろう)情動労働をレコメンドすべきではないのか。作中で主人公は「生産性の低い人間」とレッテルを貼られ、密やかに、あるいは明確にヘイトを投げかけられるのだが、その態様が直接的暴力にわたっているのは少し踏み込みが浅いと感じる。(母親が主人公を「安楽死させようとする」展開はその地獄の蓋をチラリと開いており、可能性が見えた。)
彼は「生産性の低い人間」であることを資本へと変換するグロテスクな労働に従事すべきではないのか。それがどのような態様であるかが、SF的な想像力の巡らされるフィールドなのではないか、と感じた。すなわち「生産性」をテーマにするのであれば、主人公は学生ではなく労働者として設定されるべきだったのではないか、ということです。

5.久永実木彦「男性撤廃」

タイトルで期待したが、微妙だった。すべての男性が冷凍保存された世界で、冷凍保存庫のシステムを監視する仕事に就く主人公が、システム障害に対応する。『すばらしい新世界』から『ハーモニー』まで、体制の大幅な変革の思考実験のためには「第三次世界大戦」を経由するのがディストピアフィクションの王道設定ではあるが、本アンソロジーではこの作が初めて。それで戦争の原因を男性の暴力性・権力志向性に見出し、AIが意思決定した男性冷凍保存が僅かに混乱を起こしつつも粛々と遂行されたとする。
解説文が挑発するように必ずしも荒唐無稽とは思わないのだが、せっかく細かく設定を導入したにもかかわらず、物語の筋が冷凍から目覚めた男性を制圧に行き、結局大した反抗に直面しなかったことによって、男性の「暴力性」とは本当なのかを「男性を知らない世代」である主人公が疑うことになって終わる、というのがもったいない作品だった。これだけだと2022年においてフェミニズムが主張する男性中心社会の構造は「言いがかりだ」と主張しているだけで、上司が主張する「よりよい世界になった!」というセリフにも説得力がない。
性別適合手術を受けたMtoFの女性は冷凍されずに過ごしており、彼女が受ける偏見が表層的に留まっているのは優しい世界の演出になってはいるが、その裏には拭い去れない差別感情があって、という筋にしないので、主人公の違和感が立ち往生したラストになってしまっている。
面白いと思ったのは女性だけの社会では、AIの指示によってみなが概ね3年ごとに全く違う職種へと転職し渡り歩くという、地方公務員のようなジョブローテーションが成立していることで、そうすることで年功序列による組織秩序を相対化している。(しかしそれでも、歳を重ねた女性が管理職に「適正がある」と評価される傾向があるという。)これは世界戦争の後の荒廃した社会において、数少ないヒューマンリソースを満遍なく社会の必要分野に投下するための戦略であるとともに、人間の側にノウハウが蓄積されないことでAIの専制がますます強化される仕掛けともなっている。

6.空木春宵「R__ R__」

とても良かった。朝から泣いていた。こういう作品がひとつでもあれば、アンソロジーとしてはある程度成功だろうか。
拍動(ビート)が取り締まられるようになった世界で、ビートを刻む謎めいた少女と出会い、日常を一変させられた主人公の物語。「ロックンロール・ウィズ・ミー」や「イヤー・オブ・スカベンジャー」といったディヴィッド・ボウイへの傾倒を込めながら、『1984年』の原典からもバランス良く多くをオマージュしている。
まず、新たな出会いによって禁忌を侵犯し、それ自体が革命的であるという高揚が見せ場になっている展開自体が、ジュリアと共に性交禁忌を侵犯する原典をなぞっているし、健康社会でタバコを吸うことに高揚する『ハーモニー』におけるトァン-ミァハ関係をも想起する。(「おしり、おっぱい」というセリフはそれを呼び起こすコールサインである。)
次に二重思考(ダブル・シンク)については、『文字禍』のようなルビ芸を使って、ビートによって洗脳が解けたときだけ、強制された受動態と、ヒト生来の能動態がせめぎ合う様子を表現する。このあたりは主人公にとって世界が開けていく様子を噛みしめながら読む演出ともとれるが、一方でロックンロールにノッているようなテンポの良さが減衰するので痛し痒しではあると感じた。
そしてニュースピークについては、B・B(ビヘイビア・ブリーチャー)という人間を受動態で思考させるナノマシンが導入され、P159「彼女の言葉つきはいつもおかしい。語の順序がめちゃくちゃで、常に行為の主体が主語の位置に据えられている。勿論、そんな奇妙な話され方は彼女以外に使われていない」というモノローグにゾワッとするように、主人公は受動態を所与のものと思い込んでいる。このナノマシンが恒常的な社会を求める支配層に歓迎され、格差と分断が固定させられているのが示唆され、言語統制の恐ろしさが正しく描かれている。
参考文献に『中動態』が挙げられており、流行だなぁと思う一方、受動態は「自己責任」に疲れている被支配者にとっても福音となり得るため、人々はむしろ積極的に受動態へと傾斜する危険性があるのではないか、という警鐘にもなっているのが興味深かった。
そして、能動態の世界においては「運命」的なことを大事にする価値観が受容されているのに対し、すべての人間の思考・行動は因果律に影響を受けたもので、どこまでも過去に遡ることができる受動態の世界においては、「選択」すること、できることが主人公たちの絆(バンド)のキーワードとなっている。「選択」への価値付けは新自由主義ではあるが、2022年においてそれが自明の環境のように受け止められている状態を、『1984年』のような父権的監視社会の恐ろしさとは別の形で相対化するテキストとなっている。

【認知】

7.門田充宏「情動の棺」

人々は情動制御管理装置(イーコン)により激情を抑えて理知的に言動できるようになり、またイーコンに建物や空間の管理者が配布する感情のプリセットをインストールすることで、場面に適した感情から逸脱せずに済むようにもなった設定。
そして面白いのは、感情制御によって理知的になった人々は、人口減少に対応するため「子供を産みたくなる感情をインストールする」のではなく、旧弊な家族観を急速に解体し、出産報奨金や養子縁組制度などの新たな秩序を受容するよう、感情制御を活用することとしたという。このひねった仕掛けは技ありだと思った。
そして悲劇は、感情制御によって幸せがもたらされていた家族関係に着眼して展開する。その原因はP200にある、医師として適用年齢外の子どもにイーコン埋設手術を実施するとともに、保護者としてイーコンの設定を本人に代わって行うという利益相反のお手盛りが出来てしまう法の抜け穴にあった。
食事時に対面の相手が目の前で淡々とナイフで自殺するシーンは『ハーモニー』のキァンの最期を想起するが、本作はその自殺の謎を、信頼できない語り手である主人公と、イーコンの障害事象を調査する探偵役の老人とともに辿っていく。コンパクトにまとまって読みやすい作品だった。
一方、彼女たちの幸福とその偽りが、少し修辞的に留まっていたのは弱かった。例えば、情動を管理するというなら、2022年において情動に浸されている労働についても、2084年にはどのように変容したかに触れてほしかった。作中でいち早く独立させられた姉妹たちは、充分な額の給付金を得られ、生活には困らなかったとされているが、ここでたとえば望まぬ労働へ従事することを強いられ、にもかかわらずその労働への感情の馴致が強要されたなどのエピソードがあると、もう少し悲劇が強調されたと思う。

8.麦原 遼「カーテン」

コールドスリープから目覚めた数学者が、後遺症か、時代の差か、かつての情熱を喪ってしまい、それを取り戻そうと模索する話。P224「普遍的な結果は、公開できなくするのは違うんじゃないか」など、知的財産権という資本主義の論理で真理の探索を阻害することへの疑念が語られもするが、基本的には個人の内省が続く。
ワクワクするエンターテイメントではないが、人格シミュレーションゲームと、真の命題を吐き出すシステムを連結させる「いたずら」を試みて試行錯誤する様子などが丁寧に書かれており、タイトルの「カーテン」も、カーテンをかければ、向こう側に窓や、空すらもなかったとしても、それを想像できるという切実な比喩としてうまく回収されている。語られている内容は理解できないところも多かったが、楽しく読めた。

9.竹田人造「見守りカメラ is watching you」

管理AIのリコリスと、警護ロボットのアメンボが入居者たちを閉じ込める難攻不落の老人ホームから、膝のすっかり動かなくなった老人たちが大脱走を試みる物語。エンターテイメントとして面白かった。同世代の作品が、やはり感性が合って面白いな。
たとえばスマートフォンの立ち上げに時間がかかった場合など、立ち上げたは良いものの何をしようとしたか忘れていることが我々の年齢でも既に多いと思う。あらゆる動作に時間がかかる老齢期にはそれが加速するのだろうし、<読み聞かせ>と言って、都合の良い物語を吹き込み、老人たちを沈静させて再びの監禁へ導くAIが取り憑いていれば、なおさら意思を維持することは難しくなりそう。ナノマシンによる選好や情動の統制も良いが、こちらは2022年でもかなりリアリティをもって想像できるのではないか。
そのひとつの原因として、人間のあらゆる動作がスマートフォンの立ち上げを開始地点としてルーティン化されたことも挙げられると思う。本を開く動作ならばやることは読書だけだし、懐中時計を取り出したならやることは時間を確認することだけであるが、スマートフォンを取り出しただけでは何をしたかったのか忘れてしまう。本作のクライマックスのひとつは、元タクシードライバーの主人公が、ハンドルを握った瞬間に「行うことは、客を運んで運賃をもらうことだけだ」と言って、AIの囁き惑わせるような物語を極めて容易に却下できるだけの明晰さを取り戻す点にある。体に染みついた動作が、意思の薄弱化やすり替えに対抗できる一筋の希望として提示されている。
次に、遊んで食って寝ている暮らしをしているにもかかわらず、老人ホームを「強制労働施設だ」と主張する主人公は周りから白い目で見られるが、入居者たちはレクリエーションで観る映画や、散歩の時間に見た花のことについて、端末に細かく感想を書き込むよう命じられる。AIによる自動化社会で人間に残された労働は「責任と教示」であり、責任をとるエスタブリッシュメントに対して、弱者は教示データとなることで貢献するほかなくなる。「これが2084年の強制労働である」と。とても示唆的だった。『透明性』や『ユートロニカのこちら側』で空想されるような、データとなることを受け容れることでベーシックインカムを保障される社会は、それが選択的である限りにおいてはまだしも、弱者たちを否応なく巻き込むことになれば「強制労働」に該当することになるし、もっと言うと「プラットフォームサービスを享受すること」や「スマートフォンを持つこと」すらも、そうしたくない自由を排除するのであれば「強制労働」的になるのかもしれない。
そしてオチも良かった。時折流れるフラッシュバックから、主人公は娘の結婚に反対したことで確執が生まれたのだろうか・・・と予想していたら20年代風の叙述ミステリにひっくり返される。P249で施設長が言う「人は誰しもが希望の物語を持ち、その中を生きています。コミュニケーションとは、断片的な情報から相手の物語を察して、自分の物語との接合点を探すこと。それを見つけて初めて、僕たちはお互いを認められる。」を作品それ自体が体現していた。

10.安野貴博「フリーフォール」

主観思考速度を限りなく高めた主人公が、フリーフォールしながらチェスを打って余暇を過ごしている話。思考速度を高められるのは富裕層だけで、一般平民は10倍程度までしかその恩恵に預かれないとするのは、時間というリソースまでも格差が生じることを予感させている。
フリーフォールするに至った理由、避けられない死までの間の過ごし方、そして死を避けるための最後の奮闘までよく練り上げられており面白かった。

【環境】

11.櫻木みわ「春、マザーレイクで」

琵琶湖の中の島に、軍艦島の如く高層団地が並び立ち、島内で自給自足が完結した社会が形成されている。少年は2084年4月、図書館で『1984年』を見つけて読み始める。島の外の話、歴史の話を聞くと悲しそうな顔をする大人たち。この島は、何かを隠している。少女と共にその謎に迫る。
という『ボラード病』のように社会の前提が変わった後に、災厄の前の歴史を知らない子どもたちが、押し付けられた教育に抵抗していく物語としてドキドキするのだが、本作はむしろ淡水湖の中の島が完結的な循環社会を確立している様子の描写に力が入っている。
風力発電や太陽光発電、AI漁船による食糧調達などがそうであるが、文明の利器の類いは不用品交換によって成り立つ程度の使い古しで、果たして真の意味で循環しているのか、もしくは循環できる範囲に文明レベルが落ちていくのかが不明である。最後は少し駆け足だったが、島の循環社会が見せかけで実は持続可能性がない、というところまで踏み込んで欲しかったところ。

12.揚羽はな「The Plastic World」

長編の習作というか、短編にするのがもったいないくらい面白い設定だった。海洋プラスチック問題の解決策として海にばら撒かれた分解細菌が、海をきれいにする本来の目的を果たし終わった後、河川を遡上し、陸地のプラスチックを食い荒らしたことで文明が維持できなくなった社会で、人々は生産労働に従事するため地方へ強制移住させられる。
宇宙太陽光発電の開発に人生をかけた主人公は、素材確保が不可能になりプロジェクト頓挫を挫折を味わう。その彼が、蔦の維管束という植物素材の送電線を発見したことで、文明の復興の兆しが見える…というストーリー。タイトルの「Plastic」は「可塑的な」「柔軟な」という意味も併せ持つことを踏まえ、一旦崩壊した文明も、人々が生きるのを諦めない限り、何度でも蘇ると表現したハッピーエンドとなっている。

13.池澤春菜「祖母の揺籠」

2084年を基点として24年後を描いているので厳密には「2108年のSF」で、協会会長が堂々とレギュレーションを超越しているのに笑った。
気候変動による海進と気温上昇により陸地に住めなくなった時代、ジグムント=バウマンの『レトロピア』よろしく、「生まれた時が一番良くて、あとはもう下り坂しかない」ために、もはや子どもを作ろうとしない人々は、人類の遺伝子を海底図書館に保存し、クラゲのような半球が子宮を模し、尾鰭のついた次世代の生命を生産する「祖母」を海に放つ。物語はセレブラルと呼ばれるコアに入り、「祖母」と呼ばれる存在になった女性の回想を基調として語られる。
解説によるとCli-SF(気候変動SF)であるとともにジェンダーSFでもあるらしいのでそうした軸で考えてみると、まず、資本主義は未開拓のフロンティアを開拓し、そこに資本を投資して収益を回収することで成り立ってきたが、現代において多くのフロンティアが喪われてきた中で、最後のブルーオーシャンとして「宇宙」とともに「深海」があると考えられる。
その文脈で言えば、海へと放たれた「祖母」は、陸に向かって収奪した資源を還元するための装置として設計されているはずである。しかし本作で海は、生産や収奪のフィールドではなく、上記のようにもっぱら保存と再生産のフィールドとされている。
主人公の女性は陸地に生きていた頃、移民先で出会い、心を通じ合った「あの人」とされる男の言った「じゃあ、海は任せた。陸は引き受けるね」という言葉で、「祖母」になることを決断する。このセリフを象徴として、海と陸の相関は切り離される。
これは海を陸との関係によるフロンティアではなく、陸から切り離されたユートピアとして温存しようとする希望であった。『レトロピア』の極北は、生命誕生の地である海への回帰をユートピアと見なす段階にまで至ったと考えられる。それとともに、再生産を外部化、不可視化しながら、選ばれた一部の女性に対して押し付ける選択でもあった。
ラストでは桜が印象的に用いられる。P359「2040年頃から、あちこちのソメイヨシノが春になっても花を咲かせなくなった。・・・その全てが人為的な同一クローンのソメイヨシノは環境の変化に弱く、寿命も短い。新しい病気が出てきて、あっという間に伝播し、手の施しようがなかった」というのもいかにも起こりそうで興味深いが、ここでは海で生まれた次世代が再び陸に上がることで、海と陸の再結合を果たすことが希望として語られる。
桜が繰り返し春が来るたびに咲くように、海に放逐された生命は再び陸地へと上がる、そうして気候変動による人類存亡の危機は、生命進化のプロセスを循環することによって元通りへと向かう、というイメージを想起するのは少しばかりクリシェに過ぎるのだろうか。

【記憶】

14.粕谷知世「黄金のさくらんぼ」

「さくらんぼ」は首に装着して、その人の視点を24時間365日記録するレコーダー装置であり、2022年においてもドライブレコーダーを敷衍して既に導入されつつある技術である。「2084年のSF」アンソロジーに入れるには少し設定が甘いように思える。
そうした弱点を回避するために、「さくらんぼ」は2054年(視点人物からみれば生まれる前の過去)に運用管理を一元化していた民間企業のミスによりほぼ全てが消失し、急速に廃れた技術として位置づける。そして2084年においては脳の潜在能力を引き出し、記憶力を高める技術(とそれに派生して他人の脳波を読み取る技術)が支配的になっている状況と対比する。
まさに記録媒体は「時代によって移り変わる」ものとして、2022年現在の技術を推し進めた先の、2084年はその次に来る技術の時代である、という連続性を演出することに一定成功しているのが、他の作品と異なる特徴となっている。
P381から始まる「アリバイ証明」「愛の証明」「就活時の技能証明」「劇的な記録の売買」「葬儀の際のBGM」そして「事故で亡くした息子の記録映像を延々と見続ける母親」といった社会における「さくらんぼ」利活用・受容の仕方を想定する補助線が色々と引かれるのは楽しい。
一方で、ストーリー自体がそうした列挙に留まり、キレイに仕上げられすぎているとも感じられる。博物館長はたとえば弟の死に関与しており、記録を振り返ることでそれが明らかになるみたいなちょっと怖い話にしても良かったのではないか。「忘れたかった記憶を忘れさせてくれない」といった記録の負の側面が想定されず、ただ「記録媒体ってみんなちがって、みんないい」みたいなまとめになっているのが片手落ちと思えた。

15.十三不塔「至聖所」

『ヴィンダウス・エンジン』は東浩紀に「連想をそのまま物語に落としてしまったのではないか。連想は重要だが、それをなんらかの科学的な理屈で武装しなくてはSFにならない」と評されていたが、本作は「記憶修復家」を画家崩れの主人公が妥協して選んだ職業と位置付ける着想から、修復を頼んだ音楽家と頼まれた"画家"の間の表現者としての絆がテーマとして中心化される。「芸術は世代を超える」的な情緒はあって良いのだが、それだけなら別に「記憶」を辿らなくても、2022年の技術で達成できる「記録」を辿る形で同じような物語は書くことができる。
むしろ中心化されるべきはタイトルにあるように、AR視野を故人や有名人の記憶と結合させることで「聖地巡礼」の在り方がどのように変容するかに関する想像力であると感じる。P411〜412では熱狂的ファンによるカルト的追体験が点描されるのだが、「それは純粋な幻視だった」と突き放しては台無しである。アニメ聖地巡礼を観光起爆剤として期待する行政や、あるいは荒廃する心の隙間につけ込むレトロな意味での宗教など、媒介するものが「記録」ではなく「記憶」であることで、2022年のARに対する潜在的ステイクホルダーたちがどのように振る舞うのかを知りたいというか。
そうであれば、主人公は「傷」を抱えていなければなるまい。それは記憶媒体の成立・記憶修復という職業の成立の根幹に関わる哀しい過去であるべきで、「芸術家としての挫折」のような古典的なものでは軽すぎるし、ましてや『ヴィンダウス・エンジン』における「異能力」のようなラノベ的陶酔設定でもないはず。依頼主の業績を含む、記憶社会にまつわるあらゆることから距離を取ろうとするスカした主人公は端的に魅力不足だった。

16.坂永雄一「移動遊園地の幽霊たち」

世界に12ある超巨大企業グループ(リヴァイアサン)が監視都市を支配し、過去を改竄してメタデータを占有する世界で、管理システムをチートで掻い潜って都市の外に出て、博物館の遺構・遺物を収集・保存しようとする老学者と出会う話。
P428「夜ごと仲間たちとつるむヴァーチャルの、視覚を通じて皮膚感覚に迫ってくるほどの高解像度体験に比べれば、リアルは鈍く、重く、摩耗していて、ノイズに満ちた低品質だ」やP436「もちろん、君も現代の博物館ならば何度も行ったことはある。・・・ミスティックモンスターシリーズ最新作で登場した巨角竜が早速、博物館の目玉展示としてランドスケープごと再現されていて、友人たちと競い合ってハンティングした。先月は、火星の開発基地へテレプレできる展示を使って、バイターでバトるのが一瞬だけ流行りもした」など、<君>と呼ばれる少年は、仮想の弟と脳内で会話しながら、都市におけるエンターテイメントの極致を謳歌している。「そもそも、架空のコンテンツを展示するのは、博物館ではあまり無いことだった」「エンタメ事業は、それを本体にしてしまった。・・・・ずっと昔から、商業主義的テーマパーク化は進められていたけれど」と、真実・事実を守るための機関が、動員数至上主義に魂を売り渡したなれの果ての姿がそこにある。
一方で、<君>はそれでも、都市を抜け出してピクニックに出かける変わり者・外れ値である。老学者が剥製やレプリカに向ける愛着をP442「そんなの、端末でスキャンすればすぐコピーできるよ・・・スキャンする必要だってないか。きっと検索したらすぐ出てくるよ。猿とか、日本とか、入れればいいんでしょ」と突き放すけれど、「だけどそれは証拠にならないんだ。その図だって、リアルのサルを撮影した写真なのか、ハイパーリアリズムの絵画なのか、誰も区別していない。ネットの情報は全てそうだ。繰り返し繰り返しコピーされて、編集されていく。残るのは、何の証拠にもならない、サルの姿のように見える電子画像だけ」と返す老学者の言葉にこの”ディストピア”の真理が詰まっている。だれも過去に対する関心を払わなくなれば、だれも過去を保存しなくなれば、権力の専制は批判可能性がなくなる。『1984年』の父権的管理社会はその一人一人の無関心を切り口にして始まり、強化されることを示している。

17.斜線堂有紀「BTTF葬送」

名前の読みが「ゆき」ではなく「ゆうき」であることと1993年生まれであることを解説で知った。
『楽園とは探偵の不在なり』は特殊設定・ミステリの組み立てが精緻であった一方、浪花節のパートがクドすぎて胃もたれしたのが印象的でした。本作も「映画に〈魂〉が宿り、その総量は定められているため、過去の名作を焼かないと新しい名作が生まれない」という中心的着想は面白い一方で、テロリストの女子と主人公のBTTF(『バック・トゥ・ザ・フューチャー』)フリークを通じた交流が表層的すぎてオチが弱かった印象でした。
1990年代あたり生まれは2020年代の昨今、自分たちが子どもだった頃の名作が続々とリメイクされて、消費者としてターゲティングされていることを喜ばしく感じる一方で、「新作」が枯渇していくことを憂慮しているという問題意識とマッチしてリアリティもあったのだが、矢羽をアーキビストとするなら、たとえば町川はクリエイターとして導入し、生産者と消費者の両視点があった方が良かったのでは。(”町川”はすごく消費者(評論家)っぽいネーミングだが。)
2084年を「1984年から100年の年」として1984年の文化を振り返るところからスタートしたのだと思うが、1984年を直接体験していない世代による「追憶」には限界があった、というところか。

【宇宙】

18.高野史緒「未来への言葉」

地球と月の間の物資輸送がAI自動化された時代に、月で製造された医薬品を地球の難病患者に運ぶために、人間が危険速度で手動輸送する話。文章が上手いのでインスタントに感動するにはよいが、ストーリーを要約するとそれだけの話なので特に思索が深まることはなかった。

19.吉田親司「上弦の中獄」

1884年の清仏戦争から歴史が分岐し、戦争に勝利した清国→中国が世界覇権を手にして20世紀と21世紀をリードする。1984年に来襲した地球外生命体との星間戦争のために築かれた月面都市の「天成都」が舞台。中国×異星人襲来は『三体』をイメージする。日本語作としては1984年の並び替えである1894年の日清戦争を分岐点に定位しても良かったと思うが、2084年、1984年と来れば1884年に投射する方が良いし、「西欧勢力の打倒」という象徴的な側面が重視されたところだろうか。作者は架空戦記がフィールドと言うだけあって、陰謀論的な世界観設定が巧みだった。
ガジェットとしては、市民皆が「无人座」という車椅子を使って移動している未来をP507「健常者の方から身障者に寄り添う。これは歴史的な潮流さ。作曲家の肖像画を思いだしてみろよ。ベートーヴェン以外、ほぼ全員が派手なカツラを被っているだろう。」「禿頭はハンディキャップじゃないわ」「ハンデだよ!」・・・というやり取りで説得力を持たせる。(が、2084年の中国人は、自分たちが平らげた西欧勢力の歴史をそのように参照するだろうか、という細かいことは気になる。)
また、有機物転換炉によって食糧生産がなされており、餃子(「日本自治州」風の焼き餃子)の屋台がロボットの大将により営業されていたり、婚姻制度は解体され、生殖のための短期間同衾契約が一般的となっていたりいる。このコロニーのスローガンは「産めよ、増えよ、地に満ちよ」で、同衾契約を中途解除すると「黒芝麻信用」のスコアが下落するというサンクションが設定されている。かほどに生産力向上が是とされているようだが、その実、市民たちはバカ騒ぎの享楽に耽っており、そうした市民を増やすことに何の意味があるのか?という不穏が演出されている。
そして、主人公は都市の予算措置(有機物転換炉の増設と、地球との連絡艇ポートの修繕費削減)に違和感を抱き、その秘密に迫っていく。すべてがオチできちんと回収されて、再読してなるほどと思える面白さだった。ベーシックインカム的社会において、享楽に耽る人間を「データ資源」として活用する想像力の他に、「有機物資源」として捉える方法もあることを示している。

20.人間六度「星の恋バナ」

26キロメートルに巨大化する戦闘少女・女子高生が、巨大怪獣と闘いながら生物部の先輩との文学談義と恋バナを反芻するシュールな話。謎めいた行動原理を持つ怪獣が、実は恋を求めて前進していることに気づき、世界はそれを祝福する。
四次元空間のモチーフは『三体』的だが、質量の制限が取り払われることを、「巨大化」の制限がなくなったことと解釈し、怪獣特撮の巨大化パートへと適用していくのは我が国文化の面目躍如という気がした。
あとラストがめっちゃ良いです。生殖の本能をSFはしばしば客観視するし、それがSFの魅力でもあるのだが、「恋バナ」というフレームで主体性を取り戻すのは楽しい。「サイエンス」が自然科学の意味へと傾斜しても、SF小説はやっぱり人文科学だと思った。

【火星】

21.草野原々「かえるのからだのかたち」

ゼノボット(カエルの幹細胞を材料とする「生きているロボット」)の研究の進展に触発されて、新たに生み出された生命体が、人間の進化・発展をなぞって浸潤していくイメージを「物質化(マテリアライズ)」させ、読者に想起させようとする意欲作と感じた。
P557で早速、ボルヘスの『八岐の園』で語られる迷路のような地形が、火星の地殻変動によっておのずと造られる動態を描写し、火星に植民してきた人間たちが、有機物としてそのエネルギーに無力にも巻き込まれていく様から、人体もまた自然の中に定位され相対化されることになる。
ところで、『八岐の園』には以下のような一節がある。

「チェスが解答である謎かけの場合、唯一の禁句は何だと思います?」わたしは、しばらく考えてから答えた。
チェスということばでしょう。」
「そのとおり」とアルバートはいった。「『八岐の園』は長い謎かけ、もしくは寓話であり、そのテーマは時間です。この隠れた謎そのものが、名前の出されることを禁じるわけです。ある語をつねに省略し、不適切な暗喩や分かりきった迂言法にたよるというのが、おそらく、その語をもっとも強調して示す方法でしょう。・・・

「八岐の園」より
『伝奇集』J.L.ボルヘス(岩波文庫、1993年)P135

では『かえるのからだのかたち』が省略している語は何かと考えると、「生命」と、あるいは「人間」が巧妙に回避されている様に感じられる。(「生物」は一応使われている。)どうやら火星植民都市(コロニー)であり細菌培養地(コロニー)でもあるらしい<わたし>から、かえるのからだのかたちをした<きみ>への語り口は、上述のように迷路のような地形の俯瞰から始まり、徐々にそこに棲みつく生命体のからだのかたちへとクローズアップする。
その次には「レトロウイルスを利用して、脳神経細胞に神経塵(ニューロ・ダスト)を送りこみ、細胞を磁気活性化する。そうして、外部から磁場変動を起こすことで、・・・意識は、もはや隠されるものではない。『わたし』による独占から解放された」という意識同期の仕方によって、生殖のサイクルが確立する。
最後に、空間的なかたちの獲得の後は、時間の獲得、神話の形成である。冒頭で無機質に語られた地殻変動が、それに抵抗した人間のテクノロジーの物語として化粧され、手触り感のある物語へと変貌するのは見事。ここまで来たときに、からだたちは「かえるの合唱」を歌う、社会を形成する。迷路のように感じられていた記述が重なり、生まれ出でた「生命」が「人間」のごとき社会へと到達するシナリオが完成したものと理解。

22.春暮康一「混沌を掻き回す」

限られた開発リソースを確保するために金星移住派と火星移住派が論争をする時代、<天沼矛(あめのぬぼこ)>と名付けられた環地球電離気相屈折鏡、太陽風を地球の背後の一点へと投げかける”蜃気楼レンズ”が開発されたことで、火星派が勝利を収め、<天沼矛>による火星地表面の「空爆」が実行される。レーザー光線が火星地表面を襲い、煙が立ちこめる映像イメージはそれだけで厨二病感があってワクワクする。
「こをろこをろ」と宇宙の混沌を掻き回して島を作った日本神話は、地元の日本酒の名前にもなっていることもあってなじみ深いのだが、人類全体の計画に、このように日本神話がモチーフとなった名付けが行われるのは日本の技術力が地球社会を牽引している「SF」と感じる。日本神話由来の新技術命名と言えば『PSYCHO-PASS』のウカノミタマ防御ウイルスを思い出すが、あれはあくまでも日本国内の食糧生産にかかる設定でした。
それで<天沼矛>の開発から火星開発に急速に舵を切った違和感を、P593「蜃気楼レンズは内惑星に、外惑星に対する戦略的優位を与える」ことから、「金星植民地が成立してしまえば、それは地球に優越する」というロジックが導かれるのは美しかった。宇宙植民計画を構想するときに、植民星と母星の関係は基本的に良好なものとして想定されるが、確かによく考えると、衰退する地球と発展する植民星のパワーバランスは、時間(時代)の経過と共に変化していく可能性もある。
本作で火星へとリソース配分を決めた「地球のどこかの小部屋」の頭脳はすでにそれを予想して地球の主導権を維持する権力闘争を開始しており、地政学、政治学のフィールドとしての宇宙が立ち現れてきた。現実の2022年には宇宙空間は宇宙条約によってどの国も領有権を主張できないものとされ、国際協調が基本とされているため、想像がそこで止まっていたのを「地球-植民星関係」という構図がぶち破ってくれた快感があった。
続編として、近い将来の22世紀に「地球富裕層による重税に苦しむ火星植民地市民」がどのように蜂起するかといった物語も読んでみたい気がした。

23.倉田タカシ「火星のザッカーバーグ」

「ザッカーバーグも生きていれば今年で100歳になる」から始まるテキストはその後ザッカーバーグのことをほとんど語らず、火星移住が進んだ時代の様相を並列的に様々なパターンで描き出しているが、同一のパラグラフ内でも矛盾した記述が並んでいるため、何が真実か措定できないフェイク時代・陰謀論時代のテキストとなっている。
視点人物は懲役刑の代わりに火星に送られてきたが、長い待機期間に無聊を託っており、「白い球を潰すやつ」をしたり、「アルチンボルドを顔にしたやつ」と話したりしているのだが、物語が進むわけでもなく、ただ快と不快を繰り返しているだけ。これもフェイク・陰謀論に快不快をスイッチングさせられるだけのPC・スマホ画面の前の受動的人間の鏡像になっているのかもしれない。
『混沌を掻き回す』は火星を植民地として想定しているが、本作は富裕層向けのリゾートとして想定しており、真逆である。とはいえ、火星地形へのネーミングライツを求めて殺到する姿や、全地表の80%を一人が占有する歪な格差問題などにおいて地球的な構図が維持されており、資本主義的な想像力に立脚している点は共通する。
ラストに向かってAIブラックボックス化した社会・文明は急速に衰えていき、テキストの語り口も『アルジャーノン』ほど極端ではないが、ますます受動的な人格へと向かって知性を失っていく。
P617から始まる「○○カリプス」シリーズが気合いが入っており面白い。特に「アイデンティカリプス」で記述される「ミクロな文化圏に細断された社会のなかで、人々は多層化・多面化したアイデンティティのジャグリングじみた運用を強いられるようになり、多くが脳に永久的な損傷を受け、社会は急速に麻痺状態に陥った」という部分などは、「ジャグリングじみた運用」が2022年においても既に始まっている状況を上手く表わしているとともに、結末が尻切れになる様子も含めて、サウンドバイトで衆目衆耳を惹きつけることが至上化され、中身が伴わないテキストへの皮肉にもなっていると感じる。

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