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バガヴァッド・ギーター第3章36節

アルジュナ問う。
ヴリシュニの子孫であるお方よ
人は自らの意に反してまで
強いられるかのように
罪深い行動に走ります。
何がそうさせるのでしょうか。

分かっちゃいるけどやめられないことや

自分の感情にまかせて、相手が傷つくというのは充分わかったうえで
つい口走ってしまう。

だれでもそんな経験があるのではないでしょうか。

罪深い行動を、どうしてしてしまうのか?

プラブパーダはこの質問は際限なく続くと仰れたそうです。
サッチャ先生も、BGのこの教えは誰にでも当てはまるとお話されてました。


なぜ望んでいないのに、自分に害を与えたり他人に害を与えたりすることをしてしまうのか?

そのエネルギー、力は
「情欲、自己中心的な考えからきている。」
とBGでは教えられています。

至高人格神語る。
アルジュナよ、それは情欲でしかない。
物質の激性に触れて情欲が生じ
それはやがて怒りに変わる。
情欲こそすべてをむさぼり食う
この世の大敵である。
BG第3章37節

自分が誰かに罪深い行動をしたら、それはすぐに自分に返ってくる。
(感情として。)
カルマの法則としても、そう。
例えば、嘘をついたら。
「嘘ついちゃったな~」という罪悪感や、
本音を言わなかった気持ち悪さ
(モヤモヤ感)
意地悪なことをしたり、言ったら、怒りに任せて相手を傷つけたしまったという苦しみ。

自分のことも痛めつけているし、相手のことも痛めつけていると
分かっていてもやってしまう。
それはなんで?
「それが自分の習慣だから」
(ガーン…)
ずっとそうやってきたから、「このことにたいしてはいつも怒ってしまう」
それを繰り返しているだけ…

例えば、相手をジャッジする。
(こんなことしちゃだめだよ!)(非常識だなぁ)
たとえそれを相手に指摘しなかったとしても、自分の中を
否定的な低いバイブレーションにしてしまう。
なぜ?
「それも習慣だから。」
脳の神経回路が、赤ちゃんの頃から作られて
様々な経験を通してさらに強いものになってゆく。
「これは良い、悪い」
「これが欲しい、欲しくない」
という欲になってゆく。


情欲とは

情欲とは「執着」すべてを指す。
自分はこうでありたいという期待。
強い期待があるとき、体はぎゅっと緊張した嫌な感じ。
(わかるー!視野が狭まるような、心地悪さ。)
そしてこの期待は、自分の行いによってさらに強くなってゆく…
(これだけやったんだからこうなってほしい!)


ジャッジメントについて

「これは良いことだ」
「これはやっちゃいけないことだ」
という、ジャッジメント。
多かれ少なかれ、すべての人のなかにあるものだと思う。

ふと感じたのは、
ジャッジメントをすることによって、
相手より自分のほうが
「偉い、優位、正しい、…」
という思いを感じる。
そして、そのことによって相手より自分が立派な人間のような、(笑)
少しだけ優越感に浸れるような気がする。

でも、その感覚もやはりそんなに心地の良いものじゃない。
ジャッジメントをすることで、一番感じるのは「分離感」だなぁ。

ジャッジしないということは、善悪をなくすということではない。
ただそこに「エゴ」を入れない。

誰のことをいちばんジャッジしているか。
それは自分。
他の人をジャッジするということを超えるには
自分をジャッジすることを超える必要がある。

サッチャ先生が今回のクラスでお話しされていた
「悪いことをしてしまうのはスーパーソウル(至高の魂)からきているものじゃない。」
「罪を犯すということは、魂の一部分ではない」
本当の私=魂
それはほかの人もすべてそう。
魂そのものは無垢である。

悪いことをする人や一見非常識な(それぞれの価値観の中では)人を
ジャッジするのではなく。
ジャッジより、より高い理解をする。
この地上にいる魂の状態を理解する。
それは、
無知であり、無意識であり、自己中心的であり、自分を守ろうとする。
愛されたい!とも望んでいる。
「ジャッジメントを慈悲の心に変えてゆく。」


感想
「ジャッジメントを慈悲の心に変えてゆく。」
「魂は無垢である。」
「罪深い行動をついうっかりしちゃうのは魂がやってるんじゃないよ。情欲という執着、そしてそこから生まれた怒りがやってるんだ。」
という理解でいますが、

「罪を憎んで人を憎まず」
この言葉を思い出しました。
これこそ、慈悲の心を持つということだなと。

そして自分自身もたくさん罪深い行動をやってきたし、今もそうです。
けれど、それを厳しくジャッジするのではなく、
まずは気付いて認めてあげようか。

そんなスタートから。ぼちぼちゆきましょ。
と感じた講座でした。

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