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恥とテキスト

最近はどうも長文はnoteで書くらしい。

TwitterやFacebookでは、ついこないだまでは「ブログを更新しました」といった投稿を多く見かけたが、画像主体+アフィリエイトだとブログ、テキスト主体だとnoteというように用途ですみ分けされているように見える。もちろん人によるだろうが。

それで、という訳ではないが自分もnoteのアカウントを開設してみようと思い、アカウント名にTwitterで使用していたユーザーネーム「くちなし」を入れてみたが、自分目線で「お前誰やねん」という抵抗感が強くあった。

「くちなし」は私の経営する会社の屋号でもあり、若い頃から様々なWEBサービスで使っていたハンドル名でもあるのだが、noteで使うとなると個人的な違和感がすごくある。

別に実名を出しても構わないのだが、ライター業の方のように自分の名前にネームバリューが醸成されていくことを期待するような仕事でもなく、私の場合個人名を出すような仕事はあまりないので違和感がある。なによりそれこそ「お前誰やねん」である。

他の会社経営者をならって「実名+社名株式会社代表」といったアカウント名にしてみたこともあったのだが、なんというか、自分的にはとっつきにくかった。

SNSという娯楽性の高いメディアで、突然社名をブッ込まれると、例えるならタダ飯が食えると思って参加したレセプションパーティーで、突然異業種交流会的な名刺交換会が始まり、壇上の話も片耳に、目の前には自社のサービス内容をとうとうと語る方がいて、どっちの話にも集中できずなんだか申し訳ないような気持ちになり、はい、はい、なるほど〜、あっ拍手だパチパチパチみたいな、居心地の悪さがある。

たとえ話が長くなったが一言で言えば「遊びの気分が壊れる」人になるような気がして嫌だったのだ。

といって冒頭のアカウント名の話になるのだが、色々考えた結果、アカウント名は「恥とテキスト」にすることにした。

『そのこころは、どちらもかくものでしょう』と、オチにするには弱いのだが、自分は根本的に文章を書くのはなんだか恥ずかしいのである。

文章を書くのは苦では無い方だし、仕事柄、人の文章や企画構成を添削することも多いので、馴染みはあるのだが、こと自分の文章を表に出そうと考えると「恥ずかしい」という思いが先立つ。

文章を書くというのは、恥ずかしい作業であって、推敲はその恥ずかしさをできるだけ理論武装させる作業なのだ。
それでも推敲が済んだ自分の文章は可愛いもので、書き終えたあと何度も何度も読んでしまう。
そして気がついたところをまた直す、その自分の姿勢を含めて恥ずかしい。

万人がそういうものだと思っていたのだが、WEBコンテンツが溢れ、SEO至上主義の世で、昔よりも人のテキストを目にすることが圧倒的に多くなった。

人の文章を読む分には当然恥ずかしいも何もないもので、あ〜何言ってんのか分かんねえとか、なるほど学びがあるなぁとか、好きに心の中で野次を飛ばしながら読む。

とはいえ、書かない人より書く人のほうが偉いに決まってる。みんな恥ずかしさと理論武装の間で心を削りながら頑張っているのだ。と思っていた。

はたと、あれ、もしかして文章を書くのが恥ずかしい人、そうでない人がいるのだろうかと思った。私はどうして文章を書くのが恥ずかしいのだろう。

自分の中で初めて長文を書いたのは小学校2年の時である。作文を書きましょうという授業があった。
私はその頃、家に犬がやってきたことがとてもうれしかったこともあり、犬がやってきてからの気持ちや出来事を作文用紙に書き進めた。
何枚書いてもいいですよ、好きに書きましょうとのことだったので、みんなが1枚書けそうとか、2枚目だすごいとか、ワイワイしている中で、私は7枚目を書こうとしていた。それを先生はニコニコして褒めてくれて、友達もみんながすごいと言ってくれた。

ひとしきり書き終えて提出したところで、先生はニコニコとうなずきながら私の作文用紙に目を通し、おもむろにピンク色のサインペンで段落を囲んで大きくバツを入れて添削をはじめた。あっという間に内容は削られ、作文用紙は2枚に要約された。

恥ずかしかったのは言うまでもない。
思えばあれが私の「恥とテキスト」の原初体験だったのだ。

アカウント名をつけるにあたり「文章と恥ずかしさの関係について」という考え事をしていたらこのエピソードに思い至った。

そう思えば昔も今も対して変わらないな、恥も原因が分かれば愛しいものかもしれない。

テキストを書いても書かなくてもどうせ恥はかくのだから、テキストも恥もかいてしまおうと思って、noteのアカウントを開設した。ついでにTwitterアカウントも揃えた。

「恥とテキスト」よろしくお願いします。

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