幸せは歩いてもこないし歩いて行ったところでそこにもない。
"幸せになりたい"と豪語する人こそ
幸せな状態や状況について
語れないことが多い。
なんじゃそら。
といつも突っ込みたくなるが、これがかなり日常的に起こっていることを振り返ると"なんじゃそら的出来事"だと思っている口太郎はマイノリティなのかもしれない。
とにかく現状に満足していない。
けれどこうなりたいという未来像もない。
こういう人が特に目的も意図もなく叫ぶ言葉が
"幸せになりたい"なのだろう。
そしてこんな無意味よりも価値のない言葉を
真摯に受け止め、俺が幸せにしてやるぜ的な空虚の中の空虚言葉を投げかけて、またそれを真正面から受け止めることの齟齬から2人の関係性は悪化していくのだろう。
幸せは歩いてこない。
だから歩いていくんだね。
っていう歌があるが
しっかりと自分の中にこれが幸せでしょ。という確固したものがあるなら歩いてくることもあるだろう。でもそこに確固としたものがなければ幸せは歩いてこないし、もちろん歩いていくこともできない。
つまりこの歌は努力してお前から近づいていけば幸せは掴めると説いている。でもあちらからえっちらほっちら歩いては来てくれないからね。ちゃんと自分から近づいていくんだよ。がんばってね。と説いている。
でも結局幸せがなにかもわからない輩に
幸せが掴めるわけがない。
頑張ってねと伝えてもなにもがんばらない。
そしてそれに付随して努力ができない。
もちろん歩いてきた幸せには気づかない。
努力は正義。
努力は素晴らしい。
みたいな大言壮語的な言葉がいまだに見られるけれど、努力したら幸せになれるかといえば
そんな簡単な世の中でもない。
でも掴みたいものがあるなら
そのために努力ができる。
それだけのことのような気がする。
そしてその努力している過程に幸せはある。
そして大切なのはそれを本人は努力とは思っていない。
そして結果なんてそんな過程で生まれた幸せの副作用みたいなものなのだろう。
そしてその結果による幸せの副作用は
刹那的に過ぎ去りまた過程の中に身を埋める。
いやいや俺,私の幸せは
長く続いてるよ。という人は
過程の中に渦まきながら生きる幸せな人だ。
幸福感に包まれている状態はまだまだ過程の中に生きているという証だ。
多少しんどくてもその瞬間辛くても
何か続けている過程がどこか楽しくて
ワクワクでドキドキでそれが健康的に維持できていることかあるのならそれを絶やさずに生きていけば幸せはそこにあり続ける。
それがない人はこう叫び続けるだろう。
"幸せになりたい"
"誰か幸せにしてくれないかな"
そしてそれがない人が近づいてきて
こういうだろう。
"俺が幸せにしてやるよ"
と。
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