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「ホンモノ」を目指す私たちも、きっとホンモノ。

しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
新約聖書 マタイによる福音書6章29-30節 (新共同訳)

こんにちは、くどちん、こと工藤尚子です。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

だんだん春めいてきました。先日きれいに晴れ渡った空を見上げて、「うわー、なんか、貼り付けたみたいな青やなー」と思いました。また別の日にはあまりに明るく輝く満月がまぶしいほどで、「街灯?」と勘違いしたことも。

そんなことを通じてふと思ったこと。「自然」が美し過ぎる時に、「まるで人工みたい」と思うこの感覚って、何? なんか面白いな~。

そういえば我が最愛にして尊敬する「推し」、BTSのSUGA氏も「BON VOYAGE season4」において、ニュージーランドの美しい風景を目にして「パソコンの壁紙みたい」というようなことを仰っていたような。(見返したわけではないので、うろ覚えの記憶ですみません。)

80年代生まれの私は中高時代ガッツリMr.Childrenにハマっていたのですが、ミスチルの歌詞にもこういうものがあります。

リニューアルしたビルの中
イミテーションの木が茂る
その永遠の緑をボーっと見ていた
世界中に起こってる悲劇と比べたら
僕の抱えたモヤモヤなど
戯言だってよく知っている
イミテーションの木の下を
少年が飛び跳ねている
それを見た誰かの顔がほころぶ
情熱も夢も持たない 張りぼての命だとしても
こんなふうに誰かを そっと癒せるなら
Mr.Children 「イミテーションの木」

こういう感覚は、人工物が増えた現代だからこそ感じるものなのかな……と考えていたのですが、意外とそこまで新しい感覚ではないのかも、と思わされたのが先日観劇した南座「三月花形歌舞伎」。「番町皿屋敷」という演目の冒頭で、咲き誇る桜を目にした人物が、「まるで作り物のようだ」と口にする場面があって、はっとしました。

あまりに美しい「自然」を見た時に、その美しさが「自然」であることへの驚きから「まるで人工物」と思ってしまう……。「それが本当に起こったことだ」という事実に驚くあまり、「ウソでしょ?!」と言ってしまう感じと似ているでしょうか。

翻って言えば、「私たちが作るもの(人工物)」は「神さまがお創りになったもの(自然)」のすごさ、素晴らしさを追い求めたもの、そのエッセンスを最大限抽出しようという試み……なのかもしれません。
「人工物=ニセモノ」と思ってしまう私たちの心持ちは、「自然=神さまの創られたものこそ素晴らしいホンモノ」というある種の「信仰」と裏表です。その信仰に裏打ちされて、私たちは「ホンモノ」を目指した「創作」をするのではないでしょうか。

「バベルの塔」のように、神を神とも思わず、自らが神に成り代わろうというのは褒められた姿勢ではありません。けれども、「神さまが創られるものの素晴らしさに近付きたい!」という、創作・制作の営みには、なんだか人間の健気さを感じませんか。

冒頭に引用した聖句は、イエスの言葉です。ささやかで儚く見える野の花であっても、その美しさに人の営みは敵わない。人がどんなに富を注ぎ込み、技巧を凝らしても、神の創られたものの素晴らしさを上回ることはできない。……そして、他ならぬ「あなた自身」が、その「神さまに創られた素晴らしいもの」なのだよ。

ちょっと回りくどくも思われますが、このイエスの言葉はそういう、私たちに向けられた「根底からの全肯定」を示されたものです。

先に引用したミスチルの歌詞から伺えるように、私たちは自分自身が「イミテーション」、つまりは「ニセモノ」であると感じて情けなくなったり、落ち込んだりすることがあります。でも「自分の不十分さに思い悩む」、その私自身が実はまさに、神さまに創られた「ホンモノ」です。

それはもちろん私だけのことではなく、私の隣にいる大事なあの人も、私が合わないなと思っている苦手なあの人も、みんな神さまの創られた「ホンモノ」です。海を越えた所にいる人たちも、今は憎しみの中にあるかもしれないあの人たちも、みんな神さまの創られた「ホンモノ」です。

どうかそんな素晴らしい「ホンモノ」である全ての人たちが、自分を損なうことのありませんように。また、同じく「ホンモノ」である隣人を尊び、互いに奪い合い傷付け合うようなことがありませんように。そう祈ります。

美しい桜を穏やかな心で見上げ、「まるで作り物みたいだなぁ!」と共に微笑み合う春を迎えられると良いな、と思います。


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