忘れてしまったものたちが、今の私を作ってくれている。

兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。新約聖書 フィリピの信徒への手紙3章13-14節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教主義の学校で聖書科を担当している、牧師です。

年度末ですね。教会では今日、今年度最後の礼拝が持たれました。私の住む関西ではだんだん暖かくなってきて、桜も咲き始めて、「あー、新しい春が来るなぁ」という気分が募ってきています。

この一年を振り返ってみると、皆さんはどんなお気持ちになられるでしょうか。
私は、「……この一年、何してたっけ?」という感じ(^^;)
いざ振り返っても、「具体的にこんなことをやり遂げた、こんなことができた」というのが思い出せない。春の陽気も手伝ってか頭がボーっとしてきて、「うーん、なんか……、いろいろあった気もするけど……とりあえずつつがなく過ごせて感謝であったなァ……」という漠然とした思いにふけってしまいます。

単に記憶力が悪いだけかもしれません。やったこと、学んだはずのことをぜーんぶ垂れ流しながら生きているのかもしれません。

私はぼちぼち本を読む方ですが、その内容をよく覚えているかと問われると、これもまたあまり自信がありません。私のオットなどは昔読んだ本のこんな一節に心を打たれた……なんて言って、はっきりとその言葉を記憶していたりするので「すごいなぁ」と思うのですが、私はというと、「あの、なんか、めっちゃいい言葉あってな? はっきり思い出せへんねんけど、なんちゅうか、こんなこんな感じの言葉!」と、台無しな伝え方しかできない。トホホ。

キリスト教の中でも私は「プロテスタント」という流れに属する者ですが、プロテスタントの礼拝では「説教」(あるいは使信とか、メッセージとか)と呼ばれる「聖書の言葉の説き明かし」の時間に割と重点が置かれます。聖書の書かれた「神の言葉」を、今を生きる私たちの文脈でどう理解しどう受け入れていくか……というようなことが、語り手である牧師から示されるわけです。
この「説教」によって、「あー、確かに今の私に神さまからこんな風な恵みが与えられているなぁ」とか「これからの私はこのように神さまに応答して歩んでいきたいなぁ」とか、そういうことを学んだり受け止めたりするのですが、……残念ながらこれまたよく覚えていない。

「今日の説教は私にとってすごくいいお話だったなぁ」としみじみ思ったりはするものの、ひと月も経つと「ほら、あの時の説教……この聖書箇所でお話されてた……あれ、すごい私にとって大事やってんけど……何て言うてはったっけ……」みたいな。「ほんまにちゃんと感銘受けたんかい!」と、誰かの手の甲と共にバシーンとツッコミが入りそうなものです。いやもうホント情けない。

でもね、はっきり記憶して、「こんな言葉が私にとって大事だった」とちゃんと誰かに言えなくっても、「あの言葉であの時の私がすごく慰められた、励まされた」という「ぬくもり」みたいなものの感触は確かに残っているんですよ。

若き日にお世話になっていた牧師先生に、「先生、私、すごく感動したなぁって思う説教も、後になると全然ちゃんと思い出せなかったりして、情けなくなることが多いです」と言ったら、こんな風に答えてくださいました。
「昨日の晩ご飯は思い出せても、先週何食べたかまでは思い出せないでしょう。ましてやひと月前のことなんて。でも、そこで食べたものが栄養になり、血となり肉となって、今の君の体を健やかに保ってくれている。それと同じで、説教や聖書の言葉をしっかり覚えていなくたって、そこで受けたものはちゃんと君の血肉になっているから、大丈夫」。
(この言葉はね、大体覚えているんですよ、珍しく! まあだいぶ「意訳」はしてしまっていると思いますけど……モニョモニョ)

そう、だから、「ちゃんと記憶して頭と心に留めておきたいのにー!」って情けなく悔しく思わなくても、「うーん、なんかモヤッとしか思い出せないけど、確かにあの時あの言葉にすごーく救われたんだ!」という自分にとっての事実だけが胸にあれば、それでいいんです、きっと。その記憶だけで十分、私たちは前に進んで行けるから。

卒業していく生徒さんたちに対しても、同じようなことを思っています。卒業後、母校を懐かしんで何度も足を運んでくれるのも嬉しいことは嬉しい。けれども、母校のことなんか思い出しもしないくらい、充実した「今」を過ごしていてくれるなら、こんな喜ばしいことは無い。そして、そんな「今」を過ごす原動力が、この母校で培われたものであるならば、もっと嬉しい。

今手の中にあるもの。確かに覚えているもの。あの時は大切だったのに、今はもう忘れてしまったもの。そういういろんなものによって、私たちは作られている。冒頭の聖句の言い回しを借りるならば、たとえ「後ろのものを忘れ」たって、それを悔やむのではなく、「前のものに全身を向けつつ」進んで行ければ、その「忘れてしまった何か」はきっと私の前進する力になってくれている。

そう信じて、新年度の歩みへと踏み出して行きたいと思うこの頃です。


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