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鶏口、判官、BTS…そしてイエスさまの共通点?!

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

新約聖書 ヨハネによる福音書20章19-20節 (新共同訳)

こんにちは、くどちんです。キリスト教学校で聖書科教員をしている、牧師です。

今日はついにLAにてBTSのコンサートがあるんですよ! オフラインで! ついに対面で! まあもちろん私は行けないけどねー!!!(号泣)

かつてある番組で、「このパンデミックでファンと会えなくなって、愛されている実感が持てない」とぽつり漏らしたメンバーがいました。こんなワールドワイドなスーパースターでもそんな風に心が弱ったりするのか!という驚きと、やはり私たちと同じ傷付きやすさも抱えた一人の人間なのだなという思いで、じーんと感動したものでした。今回のコンサートでその痛みが十分に癒され、愛と喜びで満たされて欲しいなぁと願います。

しかしこの弱い心の内をカメラの前にさらけ出す彼らの姿に、私は深く感心させられます。「弱さを見せることができるという強さ」なんて、逆説的なものを感じます。

思えば私がBTSにハマったのも、その「弱さ」の物語に心ひかれた部分が大きかったのです。ハマりたての頃、友人から「BTSのどこが良いん?」と聞かれる度に、「彼らは弱さを知っている」と答えていた私。(激重オタク)

小さな事務所からのスタートであったこと、ソウル出身のメンバーがいないということ、デビューまでの厳しい下積み時代や、デビュー後もなかなか花開かずに悔しい思いをしていたこと。知れば知るほど、そういう「白鳥の水面下の藻掻き」のようなところに、胸に迫るものを感じたのでした。

私は小学生の頃、「ことわざ」が大好きな子どもでした。ことわざって面白いな~と思って、もっと知りたくなって、「ことわざ辞典」を買ってもらったのを覚えています。

その中ですごく気に入ったものの中に、「鶏口となるも牛後となるなかれ」という言葉がありました。「大きな集団で下っ端となるよりは、小さな集団でも、その頭となる方が良い」という意味です。捉え違いかもしれないけれど、これを私は、「自分の属している集団が小さくったって気にするな。大きな組織に属しているからっていい気になるな」というようなニュアンスで理解して、そういう精神性を憧れめいた気持ちで受け止めたのでした。

また、「判官びいき」という言葉も好きでした。「判官」とは源義経のことです。兄頼朝の怒りを買ってしまった義経に同情する心情を指す言葉ですが、そこから転じて「弱い立場の者に心を寄せてしまう」という姿勢のことを表すようになった言い回しです。「そらそうや、強くて威張ってるやつより、傷付いて悲しんで、それでも何とか歯ァ食いしばって頑張ってる人を応援せんでどうすんねん!」と、大阪弁バリバリ小学生の私は思っていたのでした(笑)

こうして自分のルーツのようなものをたどってみると、私がBTSにハマったのもある種必然みたいなところはあったよな、と思います。痛み傷付き、悔しさも悲しみも、失望も不安も、赤裸々に歌詞や楽曲の中に注ぎ込む彼ら。その姿、その作品に触れた多くの人が「そう、その痛みは私の抱いたあの痛み、その悔しさは私の感じたあの悔しさだ!」と共感したのでしょうし、私もまたその一人であったということです。

冒頭に挙げた聖書箇所は、十字架で死んだはずのイエスが弟子たちの前に復活の姿を現した場面です。現れたイエスは「手とわき腹」を見せています。これは十字架で釘打たれ、槍で刺された傷跡を指しています。

「救い主」という呼称の気高さとは裏腹に、惨めな姿で十字架において死刑になったイエス。そのイエスが、染み一つ無いような神々しい姿ではなく、傷跡もそのままに復活されたということに、私は胸がいっぱいになる思いがします。

心理学の用語に「ウンデッドヒーラー(傷付いた癒し手)」という言葉があります。傷付いたことのある人だからこそ、相手の傷に寄り添える部分がある、ということです。傷の舐め合いとか、互いの不幸自慢とかそういうことではありません。強くて間違ったことの無い人は、弱くて失敗してしまう人の味わう惨めな思いに、なかなか寄り添うことは難しい。得てして「正しい方法」を「教える」という形で向き合ってしまいがちです。そうではなく、「こうやればいいって分かっているのに、どうしてできないんだろうね、自分でも情けなくって、辛いな」という思いに共感する。「教える」のではなく「寄り添い、癒す」という形で相手と「共にいよう」とする。それが、「ウンデッドヒーラー」なのだと私は理解しています。

正しさ、強さはとても分かりやすく、すっきりしています。でも、弱さや失望は「正論」では乗り越えられない部分があります。その複雑さ、難しさを呑み込める懐の深さ。それが「ウンデッドヒーラー」としてのイエスの愛です。

そしてそれは、「鶏口」として努力する人、「判官」的な立場で頑張っている人、そしてBTSにも通じているのかな……と思ったのですが、どうでしょう(笑) 少なくとも私はそういう意味において、彼らの歌にものすごく力付けられました。

「今日は辛いけど、でもそんな痛みも傷も自分の一部だから、そんな自分をも愛していこう。そんな自分をもイエスさまは愛してくださっているから」

BTSとイエスさまにそんな励ましをもらいながら、今日のこのコンサートに行けない悔しさも乗り越えていきたいと思うのでした(涙)

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