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建築家本間乙彦の仕事②-地域のお宝さがし-114

 前回は、友人の回想から、本間の東京高工入学以前と在学中の様相を窺うことができ、思わず、ほくそ笑んでしまいました。今回は、関根要太郎の回想から、東京高工卒業後の本間の経歴(仕事)をみてみましょう。
■夜店を開業するが・・■(大正3年(1914)~5年)
 まず、本間の「公式の略歴」(第113回表1)から、在京時代を掲げます。

 既述のように、卒業月は3月ではなく7月です。本間は卒業後、就職せずに、銀座で夜店を開きます。関根によると、「さほど就職難の時代でない時に、・・夜店の商人真似でもやる事は、当時専門学校出としては考へられない事」とあることから、夜店は本間の意志であり、その時期は、卒業と同時期と思われます。夜店では、自作の画や手芸品を販売し、銀座に夕涼みに来た人たちに、「団扇に書かれた画」が、「飛ぶ様に売れ」たといいます。本間の夜店は、銀座をぶらつく人、すなわち「銀ぶら」をあてこんだ露店の1軒と思われます。

 「銀ぶら」は大正時代の風俗で、大正7年には「字引」にも記載されますが(注1)、具体的には、銀座4丁目から新橋の千疋屋あたりまでの西側の歩道をぶらぶらすることで(注2)、歩道に並ぶ露店は多くの人々に、親しまれたようです。しかし、露天商では収入も期待できませんし、その後の継続の困難さが予想されます。もっとも、その間に、次の仕事の準備をしていたとも考えられますが・・。
 その後、やはり銀座で、「シヨウインドウの装飾業」(以下、装飾業)を自営します。この開業時期は、夜店を2年行ったとして、大正5年頃と推測されます。仕事は、シューウインドーデザインの「設計と施工」でしたが、関根は、経営上の「相当の困難」を察知しています。

注1)ウィキペディア「銀ぶら」。
注2)吉行淳之介『私の東京物語』(山本容郎編、実業之日本社、1993                   年)。

■高田商会との出会い■(大正7年~9年)
 本間の窮状をみかねた関根は、本間を高田商会(注3)に紹介すると、大変喜ばれ、「段々と得意も出来」ていったようです。高田商会が、大正3~7年に大きく発展していることを考えると、本間は、大正7年頃に高田商会の仕事を受注するようになったと思われます。

 一方、表1-Aでは、①大正4~7年まで、「大阪にて建築及装飾設計事務所を自営」、②大正7~9年まで、「東京日本電機装飾株式会社設計主任」とありますが、実際には、卒業後に銀座で夜店を開業し、その後、「装飾業」を自営しています。この「装飾業」が、①の「建築及装飾設計事務所」とすると、大阪ではなく東京での話になり、この事務所(「装飾業」)が経営不振であったことは、すでにみたとおりです。

 本間は、高田商会からの仕事によって「得意も出来」、大正7~9年頃に「装飾業」を会社組織に発展させたのが、②の「東京日本電機装飾株式会社」と考えると、時系列が整います。ただし、本間は「設計主任」とありますので、共同経営の可能性があります。

注3)高田慎蔵により創業された貿易会社。機械・船舶の輸入に力を注ぎ、明治の三大貿易商の一つと評された。第1次世界大戦中の大正3~7年に著しく業績を伸ばしたが、大正10年12月に慎蔵が逝去したころから経営不振となり、同12年4月の工場全焼事故、9月の関東大震災の罹災で経営基盤がゆらぎ、同14年に破綻した(「系図でみる近現代第44回」)。

●コンペに挑戦●
 大正8年2月頃、関根は、本間が帝国議会議事堂(議院建築)の懸賞設計(以下、コンペ)に応募するのを、「二晩」ばかり徹夜をして手伝っています。このコンペは2段階方式で行われ、1次応募は大正8年2月15日に締め切られています(注4)。関根は、これ以前から応募図面の作成を手伝い、締め切り直前(2月1日頃か)に、最終仕上げのために徹夜をしたと思われます。

 卒業後約5年、苦しいながらも続けてきた自社の経営が一息つき、コンペに応募しようとする、心的・経済的な余裕が生まれたのでしょう。一方、関根がコンペに協力できたのは、当時、「兄の仕事を手伝っていた」からで、本間のために時間を割いてくれたのでしょう。関根は、卒業後に勤めた会社を大正8年初期に辞め、兄の仕事を手伝ったのち、大正9年に自身の事務所を開設したと思われます。

注4)1次入選者を対象にした2次応募は、同年9月15日に締め切られている(近江栄『建築設計競技 コンペティションの系譜と展望』、鹿島出版会、1986年)。1次入選者(20名)の氏名は、暗号表記のため確認できない(『議院建築意匠設計競技図集』、洪用社、1920年、国会図書館デジタルコレクション)。

■木田組入社■
 高田商会の経営が思わしくなくなり、本間は、再び関根の紹介で木田組(設計部)に入社します。木田組は、木田保造が大正4年に函館の東本願寺別院(図1)を完成させた後、東京で発足させた建設会社(設計・施工)で、ルネサンス様式による白木屋呉服店の再改築工事で一躍有名になりました(注5、図2)。

図1 東本願寺別院(函館)
図2 白木屋呉服店

 関根は、「関東大震災前」に木田組設計部に勤務する本間の様子を、「今の銀座の松屋呉服店の原案の設計を君は盛んに練って居た。又その当時須田町に福岡銀行の支店の建築が、君の設計に依つて立派に実現した。」と回想しています。この時点で、本間が設計を担当した、福岡銀行の須田町の支店が完成しており(注6)、支店の設計が完成した後、松屋呉服店の原案の設計に携わっていたと考えられます。

注5)「関根要太郎研究室@はこだて」。函館東本願寺別院(鉄筋コンクリート造):大正4年11月竣工。重要文化財(ウィキペディア「真宗大谷派函館別院」)。白木屋呉服店:設計:木田保造、施工:木田組、大正7年3月竣工、工事は、「再改築」ではなく、「増改築」とある(『明治大正昭和建築写真聚覧』(文生書院、2012年)。図2・3は、同書より転載。後述の銀座松屋デパートに関する記述は、断らない場合は「関根要太郎研究室@はこだて」による。

注6)同支店については不詳。

●松屋呉服店(銀座松屋デパート)●
 松屋呉服店建設の経緯をみると、当初は、第一徴兵保険会社(注7)の自社ビル(銀座ビルディング)として「大正10年(1921)より少し前」に建設の話がもちあがり、大正11年2月に着工されました(設計:木田保造、施工:木田組)。ところが、同11年暮れに、松屋呉服店がこの建物の大部分を借りることになり、建設工事が進められる一方で、デパート仕様に変更される内部の基本デザインを本間が担当しました。それが、関根のいう、「松屋呉服店の原案の設計」で、その時期は、年明けの大正12年初期と思われます。そして、関東大震災を経て、大正14年の春に、銀座松屋デパートとして竣工します(図3)。

図3 銀座松屋デパート

 以上から、本間の木田組入社時期は、①銀座ビルから松屋デパートへの設計変更時に、基本デザインをしている(大正12年初期)。②その時期には、福岡銀行の支店が完成していることから、遅くとも、大正10年の後半には入社していたと推定されます。入社の契機は、大正9年11月の結婚(注8)や高田商会からの仕事の減少と考えられます。
 以上の本間の在京時代の経歴(仕事)などを、表1-B に示します。

 表1-Aには、大正9~12年まで、「大阪にて、くろふね図案店を経営」とありますが、関根によると、本間が、東京を離れた時期を、「その後であつたか或は前であったか、大阪に行かれて、長堀橋に黒船図案店を開業」したと回想していますが、「その後」が明記されていません。当時の本間は、松屋の設計に携わり、工事中に関東大震災に遭遇したと思われますので、大阪への転居は、「その後」すなわち、関東大震災以降と考えられ、「くろふね図案店」の経営は、大阪転居時と思われます。

注7)同社は、明治31年2月に徴兵保険会社として設立され、大正14年1月に第一保険会社に改称されるため、自社ビル建築の時点での社名は、徴兵保険会社と考えられる(『生命保険会社変遷図』)。

注8)大正9年11月4日、東京市浅草区(当時)在住の小川喜代と結婚。

■閑話休題■
 本間乙彦の、在京時代の経歴(仕事)などをみてきましたが、「公式の略歴」にその記載はなく、また、あっても時系列に矛盾が生じたりしています。その原因の一つに、『忍び草』の編集があると思われます。本間が、昭和12年8月14日に逝去し、同誌が10月8日付けで知人に郵送されていることから、遅くとも10月初旬には出版されたと推測されます。この間約2ヶ月、寄稿依頼を受けた友人・知人は、悲しみのなかで本間を回想したため、記憶違いなどもあったことでしょう。受理された回想や本間の略歴などが、短期間に集中的に編纂された様子が想像されます。なお、編集者は不詳ですが、本間に教員への道を開いた渋谷五郎がその多くを担ったものと推測されます。
 回想から窺える学生時代の本間は、自由奔放といえますが、友人、特に関根要太郎の暖かくも力強い援助から、本当に良い友人に恵まれていたのだと実感しました。
 次回から、大阪での本間の活動を紹介します。

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