建築家竹内緑の仕事②-地域のお宝さがし-104

■尼崎紡績での仕事■
 竹内は、第5回内国勧業博覧会終了後、再び茂の紹介で、尼崎紡績に入社します。尼紡は、大正6年(1917)に摂津紡績と合併し、大日本紡績(現ユニチカ)になります。竹内は、尼紡(大日紡)に19年間勤務し、菊池恭三社長、田代重右衛門重役の信任が厚かったそうです。仕事は既存工場の増改築が多かったようですが、具体的に杭瀬工場(大正6年5月竣工)と中国青島の工場をお聞きしたので、これらが竹内の新築設計の仕事と思われます(注1)。
 大正3年の日独戦に勝利したわが国は、青島の租借権を継承します。その後、日本人の活動拠点として、青島東北部の台東鎮、北部の四方・滄口が開発され、大日紡は、大正8年に四方工場(中国名「大康紗廠」)を設立します(注2)。
 日本の繊維産業は、明治末期頃から大きく成長し、大正年間には日本の中心産業に位置づけられます。都市の周辺に建設された紡績工場は、効率の高い紡績機械を多数設置し、従業員も1,000人を超える大規模なものが多く、紡績機械に熟知した建築家の設計技術が求められました。
 紡績工場の設計では、工場や事務所などの業務施設以外に、社宅・寄宿舎・食堂・医院など、従業員の生活施設も設計しますので、少なくとも開業の1年前(大正7年頃)には設計を終え、大正8年に開業したと推察されます。「真白い建物がたくさんあり、美しい工場群でした」と、写真での記憶をご子息からお聞きしました。
 「大康紗廠」の敷地は約9万坪、工場建坪2.6万坪(図1)、昭和7年(1932)当時の従業員は日本人97人、中国人4,000人という規模でした(前掲注2)。


図1 大日本紡績四方工場(「大康紗廠」)

注1)竹内勉氏談。杭瀬工場の完成年は、「大日本紡績の誕生と摂津紡績」             による。
注2 「青島物語—続編」。図1は同書より転載。

■竹内建築事務所■
 竹内は、大正11年、大江ビル(第48回参照)に竹内建築事務所を開設しますが、同13年に梅田新道西北のビルに、さらに同14年に難波橋北詰西側の浪速ビル(当時:北区樋之上町74)に移転しました(図2・3)。浪速ビルでは、多くの仕事に恵まれます。なお、浪速ビルと同じ場所に、昭和49年(1974)に「新なにわビル」が確認されますが(図4、注3)、相互の関係は不明です。

図2 竹内建築事務所(浪速ビル)
図3 竹内事務所の広告(『住』1926年4月号より転載)
図4 新なにわビル

注3)「大阪市北区詳細図」(日地出版、1974年1月版)

■竹内綠の仕事■
 竹内が設計に携わった施設名称などを、表1に掲げます。

 施設の名称は、ご子息・元所員の聞き取りや書簡、建築年代は備考により、竣工月が分かる場合は、名称の後に追記しました。宮川モスリン宮川工場の仕事は、中村義雄(表1、大正14年頃)が竹内事務所で行ったそうですが、宮川モスリンの「操業は1924年」(大正13年)(注4)で、中村の入所時期とずれがあることから、操業後の増築であったのかも知れません。福島人絹防府工場は、「福島人絹本館」とあります(表注F)。

注4)「宮川モスリン工場[仮題]」

●所員●
 当初、所員は1人(アルバイト)でしたが、後に4人になります。仕事が増えたことから、事務所の体制を整えたと思われます。
道田泰治郎 道田は、関西商工学校(第61回参照)を大正10年に卒業し(注5)、同12~13年頃から数年間アルバイトとして勤務していますが、日本レーヨン宇治工場の仕事はご存知ではなく、三十四銀行(難波・谷町・玉造支店)の仕事に携わったそうで、昭和4年頃まで勤務したと思われます。後に大阪府庁入庁。
中村勇(長谷川勇) 長谷川勇は、中村義雄の実弟です。構造計算が得意で、事務所では構造を担当しました。後に間組に入社。
土屋史郎 土屋は、大阪府立職工学校(現大阪府立西野田工科高校)を大正15年に卒業(注6)し、竹内建築事務所へ入所しました。土屋は、大正15年からしばらく勤務し、後に鴻池組に入社。
中村義雄 中村は、関西商工学校を大正4年に卒業し(注5)、茂野村建築事務所(以下、茂野村)へ入所、天満織物城北工場の建設に従事しています。所長の野村一郎が、大正2年に亡くなった茂庄五郎の名前を残して経営しており、よく茂の思い出話がでたそうです。
 大正7年に茂野村を退所、富士(現王子)製紙に入社し上京します。東京では早稲田大学の聴講生となりますが、北海道や静岡へ転勤となり、大正11年に東京に戻りました。大正12年、富士製紙を退社、同年帰阪して大林組に入社しますが、竹内の招きにより、竹内建築事務所に入所します。その際、中村自身も事務所開設の希望があったので、1年ほどで辞めるという条件であったそうです。
 その頃竹内は、大日紡社長菊池恭三の紹介により、日本レーヨン宇治工場の設計のために日本レーヨンに出向しました。事務所には週に1度位しか出社できず、事務所では、中村が日本レーヨン以外の仕事をしていましたが、仕事が多く、1年後の退職が困難となり、自身の事務所の開設と建築雑誌『住』(以下、住)の発刊を条件に竹内建築事務所の仕事を続けています。
 『住』は、大正15年4月10日に発刊され、同誌の竹内事務所の広告に中村義雄が記載され(図3)、また、中村事務所の広告も掲載されていることから(図5)、中村事務所開設時に、中村が竹内事務所でも仕事をしていたことが分かります。なお、『住』は、同年5月に第3種郵便物の認可を受けています。

図5 中村事務所広告(『住』1926年4月号より転載)

注5)『関西大倉同窓会名簿』(1983年)
注6)『会員名簿 大阪職校会』(1997年)。事務所への入所は、職校学校             教員大澤幸平の紹介による。大澤は、昭和22年に大幸建設を創業して             いる(同社HP)。

●紡績関連の仕事●
 竹内が独立後、大日紡において培ったノウハウを活かして設計に関わった、日本レーヨン宇治工場・同岡崎工場を紹介します。
日本レーヨン宇治工場 宇治工場は、戦前の主要な建築を紹介した『近代建築画譜』にも掲載されています(図6)。本工場8,000坪、付属工場2,000坪で(図7)、竹内が設計の指揮をとりました。同工場では施設の建て替えが進み、筆者が見学させていただいた当時(1985年頃)、竹内の設計による施設では、事務所(図8)のみが残されていました。図6の右奥に、事務所棟が描かれています。

図6 日本レーヨン宇治工場(『近代建築画譜』より転載)
図7 日本レーヨン宇治工場配置図(『風雪に耐えて』(1976年)より転載)
図8 日本レーヨン宇治工場事務所

日本レーヨン岡崎工場 岡崎工場は、昭和10年4月に操業しますが、同年10月には第2工場が完成し、急速に発展します(図9・10)。

図9 日本レーヨン岡崎工場全景
図10 日本レーヨン岡崎工場配置図(『ねんりん』(1985年)より転載)

 大規模な紡績工場の設計では、工場や事務所などの業務施設のほか、社宅・寄宿舎・食堂・医院など、従業員の生活施設も設計にも長時間を要したとお聞きし、まるで、「まちづくり」のように感じました。岡崎工場では、事務所(図11)・講堂(図12)・食堂・寄宿舎・医院・浴場などが残されており、見学させていただきました。

図11 岡崎工場事務所
図12 岡崎工場講堂

■閑話休題■
 竹内は、28歳頃(明治33年[1900])に来阪し、建築家茂庄五郎に就職の斡旋を依頼し、大阪市役所を紹介され、植物温室の設計を担当しました。その後、尼崎紡績へ紹介されますが、一面識もなかった竹内に、2度にわたって就職を斡旋した茂の器の大きさを思わないわけには行きません。竹内は、終生茂に恩義を感じ、早逝した茂の家族に対しても、ご子息をよく挨拶伺いに遣わしたとのことです。
 竹内について、「京都を本拠に活躍した建築家で、おそらく本願寺となんらかのつながりがあったものであろう。」(注7)との指摘がありますが、本拠(事務所)は大阪です(図3)。また、本願寺とは何の関係もなかったそうですが、大谷仏教会館(第10回参照)が田代重役の紹介によることを考えると、田代を通じて本願寺と間接的な関係があったのかも知れません。

注7)『近代建築ガイドブック(関西編)』(鹿島出版会、1984年)

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