南木神社-地域のお宝さがし-27

所在地:〒585-0000 大阪府南河内郡千早赤阪村大字水分357

■摂社南木[なぎ]神社■
【由緒と変遷】
当社の社名は、後醍醐天皇が延元元年(1336)5月、湊川の戦いで戦死した楠木正成をいたみ、翌年4月に自からの手になる正成像を祭り、南木神社と名付けたことによります(注1)。なお、摂社[せっしゃ]とは神社境内にある小さな社のうち、本社の祭神と関係のある社をいい、これに該当しない社は末社[まっしゃ]といいます。
元禄10年(1697)、楠木正成を尊崇していた伊勢神戸藩主石川総茂によって再建されるとともに、正成像を納める厨子を作り、扉に銘を記しています(注2)。
これが、『河内名所図会』(図1、1801年)にある、「本社の左にあり、後醍醐帝勅によつて正成乃霊を祭る。扉の銘ハ武州下館城主石川源総茂候是を書す」のことでしょう。ただし、下館は武州ではなく、常陸すなわち常州です。

図1

図1に見える、本殿背面左側の石段がある場所が元の南木神社の場所で、本殿のみが鎮座していました。その後荒れ果て、明治初期に修築されますが、昭和9年(1934)の室戸台風により社殿が崩壊したため、現在の場所において再建されることになります。

注1)井上正雄『大阪府全志』(1976年復刻)。南木は「楠」を分割したともいう。
2)『大阪府史蹟名勝天然記念物第一冊』(1974年再刊)。

【社殿は官幣社級】
造営は、第1期で本殿(図2)、第2期で拝殿(図3・4)・弊殿・神饌所など、第3期で全体が整備されました。

図2

図3

図4

本殿は高さが33尺(約10m)、規模は24坪(約79m2)、桧皮葺き[ひわだぶき]、台湾桧による春日造りで、昭和12年2月起工、同13年4月に竣工しました。本殿・拝殿は、大阪府社寺課によって官幣社(注3)に準じて設計されたといいます。摂社というには本殿の規模が大きく、官幣社に準じた設計というのが感じられます。以後、第2期・第3期と続き、完成は昭和15年4月です。

注3)明治時代以降、主として皇室尊崇の神社および天皇・皇親・功臣を祀る神社(『広辞苑第五版』)。

●拝殿設計のモチーフは国宝●
拝殿は、石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿(図5、以下建雄社拝殿)を参考に設計され、完成した際には、「間口四十七尺といふ堂々たる国粋的美術建築」の評価を得ました(注4)。

図5

建雄社拝殿は、①内山永久寺の鎮守の拝殿を大正3年(1914)に現在地に移建した。②当初の桁行3間であったが、正安2年(1300)に改築して現状のようになった。③中央の1間を土間とする割拝殿形式で、土間(通路)上部の屋根を唐破風とする古式を示していることなどが分かっています(注5)。
両者を比較してみると、割拝殿形式で、正面に唐破風が設けられ、虹梁上に蟇股が備えられるなどの共通点が見られます。一方、南木神社の唐破風は軒先に設ける形式になり、さらに軒唐破風下部の庇を柱と虹梁・蟇股で支えることで、参拝の空間が拡張されています(図3)。また、内部は両脇が区画されていないため、通路としての馬道[めどう]が不明確ですが、反面、天井を格天井とし、長押が回されて格式が調えられるとともに、独立柱によって開放的な空間が創出されています(図4)。
なお、社殿の屋根は桧皮葺きで昭和60年に葺き替えられ、平成29年(2017)に桧皮葺きから銅板葺きに変更されました。

注4)毎日新聞(1938年4月17日)
 5)『日本建築史図集』

●内山永久寺●
拝殿があった内山永久寺は、永久年間(1113~18に)に鳥羽院勅願で創建され、18世紀末に至っても、八角多宝塔・大日堂・方丈、観音堂・阿弥陀堂・三社(鎮守社)など、多くの諸堂が整備された大寺院であったことが分かります(図6、『大和名所図会』1791年)。図6の三社(鎮守社)の手前に描かれた、横長の建物に唐破風が架けられた建物が移築前の拝殿でしょう。

図6

しかし、当寺は明治初年の廃仏毀釈によって破壊され、明治9年(1876)に廃絶しました。荒廃していた拝殿は、大正3年(1914)に現在地に移築され、石上神宮摂社出雲建雄神社拝殿となり、同5年5月には特別保護建造物、昭和29年3月には国宝に指定されています。このことからも、建雄社拝殿が優れた建物であることが分かります。

■閑話休題■
廃仏毀釈の折には多くの寺院が荒廃し、寺宝や建物などが売却される場合が多くありました。建雄社拝殿は「わずか75円」で売却され(注6)、興福寺五重塔の売却価格には25円と250円の説があるそうです(注7)。これらの価格が適正か否か分かりませんが、建雄社拝殿が大正3年に75円売却されたとして、当時東京の例ですが、銀座の土地1坪500円、大工の日当1円10銭、1ヶ月の家賃(1戸建て借家)5円20銭を見ると、現在の国宝がとてつもない安価で売却されたことが窺われます(注8)。
もっとも、興福寺五重塔は、「古物商が塔上の九輪を古金物として値ぶみし」て買うことになりましたが、塔を解体せずに「火をつけて焼き払い、九輪だけを回収しようとした」ので、近所の猛反対にあい、この話しは「沙汰やみ」になったそうです(注9)。時代の混乱が窺えます。

注6)「奈良の寺社遺跡 山辺の道 2013-06-10」
 7)「興福寺五重塔二十五円売却説」の若干の問題点
 8)『値段の明治大正昭和風俗史』
 9)太田博太郎『日本の建築』

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