建築家茂庄五郎の仕事② -地域のお宝さがし-101

■茂建築事務所■
 茂建築事務所(以下、茂事務所)は、明治28年(1895)、大阪市北区東梅田町の自宅に開設されました(図1、注1)。図1をみる限り、門に掲げられた「設計 監督 鑑定 茂建築事務所」という横書きの表札と、庭に置かれた青写真台のようなものが無ければ、普通の住宅と区別がつきません。

図1 茂建築事務所

『地籍図』(注2)でも、茂の名前が確認できませんので、この住宅は借屋と思われます。その場所は現在の大阪駅前第1ビル付近であったそうですが(注3)、詳細は不詳です。
 もっとも、明治36年に東京で開設された辰野金吾の事務所(辰野葛西事務所)でさえ、現在の新橋駅近く、間口4間の古い和風2階建て住宅でした。1階は家主夫婦と女中室、玄関脇の1室を事務所の応接室とし、2階は1室にして6枚の製図板がおかれ、所員は立ったままで製図板に向い、所長である辰野金吾の製図板はもちろん机もなく、食卓で図面を見ていたそうです(注4)。
 茂事務所は、門の両脇は土蔵(もしくは長屋)、奥に主屋、その右側は土蔵と思われ、規模的には辰野事務所より余裕があったと思われますが、事務所内での所員の作業実態は大差がなかったと思われます。当時の建築事務所の実態が窺えて、興味深く感じられます。

●茂事務所員●
 茂庄五郎の周辺には、表1に示すように29名の「門弟」・「門人衆」と称される人達がいました(注5)。「門弟」は、12名の建築学会員(正員1名・准員11名)(注6)を含む21名で、8名(勤務先無記載1名を含む)が、茂事務所以外に勤務しています。茂事務所員は、14名(門弟13人、門人衆1人)です。同時期の建築事務所、例えば、辰野片岡建築事務所は准員のみ9名、河合浩蔵建築事務所は准員のみ3名であることから、これらの事務所と同程度、もしくはそれ以上の規模であったことが分かります。

 「門弟」21名のうち14名が関西商工の卒業生、橋本勉(東京帝国大学)は茂の後輩ですから、「門弟」は、主に茂の教え子や後輩など、より茂に近い存在であったと考えられます。一方、「門人衆」には、竹内緑のように、茂に就職の斡旋をしてもらい、終生その恩義を感じていた人物が含まれています(前掲注3)。渡辺藤太郎も、茂事務所に勤務で同様であったものと推測します。
 このような呼称が、他の事務所でもあったのかは不明です。前記の辰野葛西事務所では、辰野が入所希望者に対し、「・・ここは勉強するところなんだから・・」と訓戒したと言いますから(前掲注4)、小異はあっても、当時の事務所では、先生が所員に教え、所員は勉強するといった雰囲気があったものと思われます。なお、「門人衆」の竹内の業績などは、別の機会に紹介します。

注1)『茂庄五郎君小伝』より転載。
注2)『大阪地籍地図』(吉江集画堂、1911年)
注3)竹内勉氏談
注4)伊藤ていじ『谷間の花が見えなかった時』(彰国社、1982年)
注5)『忍草』(茂とめ子氏蔵)による。同書は、茂の13回忌に門弟池藤八               郎兵衛によって著された自筆本である。同書のP66~67の葬列の記載             に、「以下門弟」として21名の氏名が記されている。また、P100~              101には、「門人衆」として29名が記されているが、「門弟」と「門              人衆」が混乱しているため、「以下門弟」と記された21名以外の8名              を「門人衆」と判断した。
注6)『建築学会々員住所姓名録』(大正元年[1912]10月22日調)

■関西商工■
 茂が、建築技術者の養成にも尽力したことを、橋本勉は、「関西商工学校創立に際して与って功あり現に同校監事たりき」と記しています(注7)。関西商工の設立については、第61回で紹介しましたので、ここでは簡単に触れるに留めます。

●設立・学制●
 明治31年8月、神谷邦淑・嘉納謙作・阪本次郎・廣瀬茂一・茂庄五郎が、大阪にも工手学校(東京、現工学院大学)のような学校が必要であるとの議論をしたことが、関西商工設立の契機です。そして、明治35年10月、大阪最初の夜学として開校されました。同校は、予科2年(普通科目)、本科2年(専門科目)の4年制で、建築科の授業は、辰野片岡建築事務所員や住友銀行建築課職員など、多くの「工学士」(大学卒)が、講師を勤めました。
設立発起人の茂は、開校後は評議員となり、明治39年9月に監事に就任し、大正2年に亡くなるまで勤めています。茂事務所勤務の「門弟」のほとんどが、明治39年以降の卒業であることと、何か関連があるのかも知れません。
 ちなみに、当時、大阪には技術者を養成する学校はなく、大阪で最古の大阪市立工業学校(現大阪府立都島工業高校)と大阪府立職工学校(現大阪府立西野田工科高校)が設立されるのは明治41年です。

注7)橋本勉「故茂庄五郎君略伝」『近代日本建築学発達史』

■茂庄五郎の葬儀■
 茂は、「嚢ニ身体ノ違和ヲ得」たため、故郷の小島に戻って静養していましたが、友人の小川寅六は茂の病気が、「不治ノ疾ナル」ことを知り(注8)、長崎への転居をすすめ、茂も了解して帰阪しますが、大正元年12月に発病、大正2年3月28日に死去しました(注9)。
 茂の死亡通知は、大阪朝日・大阪毎日・大阪時事新報・東京時事新報・長崎新報・東洋日の出新聞の各紙に、3月29日付で、「茂庄五郎儀、病気之処養生不相叶本日死去致候間此段謹告仕候、追而葬儀ハ三月三十日午前十時大阪市北区東梅田町自宅出棺長柄葬儀所ニ於テ仏式ニテ相営可申候、嗣子貞二、妻哲子、親戚総代茂由太郎・鶴田友次郎、友人総代平賀義美・長尾半平・瀧村竹男・廣瀬茂一」と、掲載されました(注10)。親戚総代の茂由太郎・鶴田友次郎はともに茂の実兄で、由太郎が長男、友次郎が次男です。
 この記事に病名は記されていませんが、小川寅六の弔辞に、「嚢ニ身体ノ違和」とあり、内臓の疾病と推測されますが、橋本勉は、「両三年来宿阿腎臓病に悩み」と、腎臓病と記しています(前掲注7)。
大正時代になり、葬列を廃止したり、夜間の密葬にするケースがふえてくる(注11)という気運の高まりに反し、茂の葬列は、「門弟」・「門人衆」、友人、親類縁者などの後に、一般会葬者約1,000人(注12)という盛大なものでした(図2)。

図2 茂の葬列
図3 大阪の神葬行列

 葬列は、先払1人に始まり、乗物、立会、警固、白高張、線香人などの後に、「門弟」・「門人衆」、友人に囲まれた柩、喪主、親族と続き、看護婦で終わるまで約150人で構成され、当時の社会風俗における行列を踏襲するものでした(図3、注13)。図2と図3を比べてみると、後方に柩が見えます。新聞には、葬儀は「仏式」と記されていましたが、神式の葬列のように見えます。

注8)小川寅六の弔辞(前掲注5)『忍草』所収、茂とめ子氏蔵)。
注9)子息貞二の弔辞(前掲注5)『忍草』所収)。
注10)前掲注5)『忍草』に貼付された新聞記事による。
注11)井上章一『霊枢車の誕生』(朝日新聞社、1985年)
注12)前掲注5)『忍草』に、葬儀に関する一切のことが記録されている。
注13)『上方』(96号、1938年12月号)より転載。

 茂逝去の1年後、茂庄五郎を顕彰する碑が建設されます。その碑は、現在も残されています。次回は、碑が建立されるまでの敬意や除幕式などを紹介します。

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