建築家茂庄五郎の仕事① -地域のお宝さがし-100

■茂庄五郎の仕事■
 茂は、明治24年(1891)帝国大学工科大学(現東京大学工学部)卒業後、明治25年尼崎紡績に入社、同社第2工場の設計を担当した後、翌27年海軍省の嘱託として呉海軍工廠に勤務(注1)、明治28年大阪において建築事務所を開設します(注2)。明治35年、関西商工学校の創立にあたり、発起人・評議員として尽力し、同39 年9月より監事に選任され、大正2年(1913)3月29日に亡くなるまでその職にありました(注3)。
 茂については、「大阪方面に於いて各所に工場の建築あり主として…茂庄五郎の設計監督せしものなり」(注4)と評され、設計に携わった工場建築は、「其数、百を以て数ふ」ともいわれています(注5)。茂が設計などに関与した施設などで判明するものを表1に掲げます。この内、外観などの様相が窺える施設を見ていきます。

注1)『茂庄五郎君小伝』。勤務歴で断らない場合は、同書による。
注2)山口廣『都市の精華』(三省堂、1979年)。なお、「建築設計報酬金            等請求訴訟の一新例」(『建築雑誌』(1899年1月号所収)による                  と、明治30年頃には、尼崎紡績の顧問を勤めており、尼崎紡績退社後             も同社との関係が継続していることが窺われる。
注3)橋本勉「故茂庄五郎君略伝」(『近代日本建築学発達史』p2,132所                  収)
注4)『明治工業史4建築編』(1927年)
注5)前掲注3)「故茂庄五郎君略伝」。一方、茂の友人小川寅六は弔辞で、          「・・・緒方病院等ノ大建築皆其設計ニ成リ同方面ニ於ケル再余ノ大小建            築モ亦直接間接其手ヲ煩ハサルモノナク・・・」(『忍草』所収、茂と              め子氏蔵)と、茂が工場だけでなく、広範囲にわたる建築の設計に携            わったことを披瀝している。

●日本カタン糸●(当時大阪府中河内郡龍華村)
 日本カタン糸は、茂が明治29年5月に工場の設計・監督を請け負っていることから、茂の初期の仕事と見ることができます(注6)。
工場内施設 明治30年6月に建築された工場の規模は、煉瓦造6棟(406.72坪)、木造5棟(93.75坪)、11棟の合計500.47坪(約1,651.6㎡)ですが、明治34年9月でも、煉瓦造6棟(汽罐室、機械室、電機室、網場、工場、乾燥室)、木造6棟(倉庫事務室、食堂、社宅、糊場、鍛冶場、錻刀場)と大きな変化はありません(表2)。

 施設では、木造の「社宅」(9坪)が気になります。工員用なら独立家屋は無いと思いますが、長屋とすると、どんな間取りでしょうか。例えば、江戸時代の庶民の長屋には、「九尺二間」(間口9尺×奥行2間)や「九尺三間」(間口9尺×奥行3間)が多くありました。9尺は1.5間ですので、前者は3坪、後者は4.5坪で、間取りは、土間+1室(4.5畳~6畳)、現代的にいうと「ワンルーム」形式です。「社宅」は9坪ですので、2~3戸の棟割り長屋であったと推測されます。
 他に、「稲荷神社」があります。「お稲荷さん」のご利益は多くありますが、会社では、やはり「商売繁盛」でしょう。勧請先は、「伏見稲荷」でしょうか。
意匠 工場の外壁は煉瓦造、屋根は切妻造りで、それらが組み合わされて構成されています。

図1 配電室(左)・汽罐室(右)

 図1は、撚糸工場右端部の配電室・汽罐室です。配電室の左側に陸屋根の室が配され、その左側は、煉瓦造の壁面、切妻屋根の平側で構成される立面です。なお、工場の内部は、洋風小屋組(トラス)で支持されています。
 切妻屋根の妻面を見せる配電室・汽罐室は、壁面の周囲や中央部を煉瓦で区切り、白色のキーストーンを用いた半円アーチの窓が設けられた意匠で、茂の設計手法の一端が窺われます。

注6)『旧帝国製糸八尾工場の明治建築』(八尾市教育委員会、1987年)。             旧帝国製糸は日本カタン糸の解散後に同施設を使用して操業した企業             である。日本カタン糸に関する記述で断らない場合は、同書による。              図1は、同書より転載。

●横浜正金銀行神戸支店●(注7)(当時:神戸市神戸区)

図2 横浜正金銀行神戸支店

 同銀行は、『近代建築画譜』(以下、画譜)には、設計山口半六、起工明治27年2月、竣工明治29年12月とありますが、『商都のデザイン』(注8)には、設計茂庄五郎、設計校閲・工事監督山口半六とあります。工事期間から、茂が尼崎紡績勤務の末期に設計し、茂事務所開設後に竣工したようです。

注7)図2・4・10は、『画譜』より転載。
注8)坂本勝比古『商都のデザイン』(三省堂、1980年)

●毛斯綸紡織●(注9)(当時:大阪府西成郡中津町)

図3 毛斯綸紡織

 『近代大阪の建築』には、明治33年、設計者茂庄五郎、山口半六とありますが、山口は明治33年8月23日に亡くなっていますので(前掲注8)、山口がどの程度この仕事に関与したかは不詳です。
 図3の中央部から左部に多くの工場棟、左下部には、煉瓦造(陸屋根・切妻屋根)の施設や煙突、右側下部から上部にかけて見られる多くの木造の施設は、社宅や食堂などの工員用の施設と思われ、大規模な工場であることが分かります。

注9)図3・5・6は、『近代大阪の建築』(ぎょうせい、1984年)より転載。

図4 大阪電灯安治川発電所(明治41年)
図5 大阪電灯安治川発電所(大正2年)

 図4の竣工年は、明治41年(『画譜』)ですが、『近代大阪の建築』には、図5が掲載され、「大正2年(1913)錢高組」とありますが、設計者の記載はありません。表1中の大阪電灯には、安治川両発電所とあります(備考欄)。所収誌Aの筆者橋本勉は、茂建築事務所員ですから、この記述は信頼できると思われ、茂は、安治川発電所を2度(明治41年・大正2年)に設計したと考えられます。図4・5を比較すると、前面に工場が増築され、煙突の位置が変更され、本数も増えていることから、2度目の設計は施設の増築であったと思われます。

●堺セルロイド会社外人住宅(アクステル邸)●(当時:堺市北旅篭町西)

図6 堺セルロイド外人住宅(アクステル邸)

 この住宅は、原設計をアクステル、実施設計は茂建築事務所が行いました(図6)。図2と比較すると、長手方向中央部における三角形の小屋根(切妻破風やペディメント)、1階と2階の区切りに帯状の区画、竪長窓の形態に、茂による意匠の類似点が感じられます。アクステルについては不詳ですが、堺セルロイド工場(図7)の基本設計も行っていることから、建築以外の技術者(お雇い外国人)なのかも知れません。

●堺セルロイド工場●(当時:堺市鉄砲町)

図7 堺セルロイド工場(現状赤レンガ館)

 施設の説明板によると、同工場は、「阪神高速大和川線の事業化により2008年(平成20)廃止となり、工場施設の解体・撤去が決定」されましたが、地域住民などからの強い要望で、赤レンガ館として保存されました。図7の右側を南海電車が走り、背面は大和川に面しています。筆者は、平成20年3月24日に、南海電車中から往時の施設を見ました(図8)。煙突や排気筒、煉瓦造の建物の存在が分かります。手前と奥に重機が見えますが、解体作業中であったのかも知れません。右側の建物が、現在の赤レンガ館です。また、敷地内には現在も、「護幸大明神」が祀られています。狛犬は、東京の三井家の奉納です(図9)。

図8 堺セルロイド工場(平成20年)
図9 護幸大明神

●大日本紡績山崎工場●(当時:大阪府三島郡山崎町)

図10 大日本紡績山崎工場

 『画譜』には、設計茂建築事務所、起工大正13年8月、竣工仝15年12月とあり、大正末期に完成したことが分かりますが、既述のように、茂は大正2年3月に亡くなっています。その後を継いだのが野村一郎です。野村は、台湾総督府技師として、旧台湾総督官邸などを設計し、大正元年茂事務所入所、同2年の茂の死後、橋本勉と、「茂野村建築事務所」を共同経営し、昭和元年(大正15年=1926)に野村一郎建築事務所を開設しているので(注10)、茂野村建築事務所の末期の仕事といえます。

注10)Wikipedia「野村一郎」

■閑話休題■
 明治23年に滝大吉が開いた建築事務所は、短期間で閉鎖されましたが(第98回)、茂庄五郎は、工場建築という新たな分野を建築活動の場とし、近代大阪の産業の発展に貢献したことからも、大阪における草分け的な建築家であり、茂建築事務所はその最初期の建築事務所であったといえます。

次回は、茂建築事務所についてみます。

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