建築家茂庄五郎の顕彰碑 -地域のお宝さがし-102

■茂君中南紀徳之碑■
 茂庄五郎没後一周忌に、「茂君中南紀徳之碑」(以下、紀徳碑)が、四天王寺境内に建立されました(図1)。紀徳碑は、戦前に紹介されていますが(注1)、損傷しながらも、境内のほぼ同一場所に現存しています(図2)。

図1  茂君中南紀徳之碑(建立時)
図2  茂君中南紀徳之碑(現状)
図3  『茂庄五郎君小伝』(筆者蔵)

 「紀徳碑」建立の経緯は、『茂庄五郎君小伝』(以下、小伝、図3、注2)に記されています。また、副題に「紀徳碑建設始末」が添えられていることから、同書が、建碑賛同者に対する事業完了報告書であることが分かります。

注1)図1は、『近代建築画譜』(2007年)より転載。
注2)紀徳碑に関する記述で、断らない場合は同書による。

●発議と経過●
 「紀徳碑」建立の発議と経過は、以下のとおりです。
①大正2年(1913)3月、茂の逝去に際し、友人達が茂の功績と遺徳を偲ん       だ際、「紀徳碑」建立に話しがおよび、その竣工を一周忌と定めた。
②同年11月、36名の建碑発起人(以下、発起人)が決められた(表1)。

③同年12月、「故人に縁故深き諸彦」に、寄付金の依頼が行われた。
④その間、宗兵蔵・橋本勉により、紀徳碑の設計が行われた(図4)。

図4  茂君中南紀徳之碑設計図
図5  茂君中南紀徳之碑除幕式

⑤大正3年2月着工、3月28日竣工。翌29日に除幕式が行われた(図5)。
⑥同年4月28日、故郷長崎にて納骨式が行われた。

●発起人●
 発起人は、建碑趣意書の作成や発送などに加えて、茂との関係があった企業への寄付の依頼を行っています。除幕式当日には、発起人総代の瀧村竹男、友人の宗兵蔵、門下生総代の千賀正人、関西商工学校監理者の代表嘉納謙作が挨拶、橋本勉が工事報告を行いました。また、碑文の文末に、「光吉元次郎撰、坂本文一郎銘、友人等書」とあることから、碑文も発起人が中心となって作成したことが分かります。
 碑文は、発起人が分担して揮毫していますが、筆頭の辰野金吾は、篆額(てんがく)の「茂中南君紀徳之碑」を揮毫しました。発起人以外では、上瀧福太郎・池藤八郎兵衛が揮毫しています。上瀧と茂の関係は不祥ですが、師弟関係にあったものと推測されます(注3)。池藤は、茂の「門弟」で、建碑寄付金の『出納簿』の管理や(注4)、葬儀の記録である『忍草』を著していることから、葬儀を始めとする一連の事業の事務局的な立場にあったと考えられます。発起人では、荒川喜代次・藤瀬政治郎が揮毫していませんが、当時、荒川は愛媛、藤瀬は清国に居住したためと思われます。

注3)「上瀧先生謝恩祝寿会」(大正元年9月29日)の写真が残されており、              茂は左上の枠内に写真が挿入されている。時期的に病気による欠席                と思われる。
注4)『出納簿』に、池藤八郎兵衛によるメモと押印がある。

●縁故深き諸彦(寄付依頼)●
 今回の寄付の依頼は、被依頼者には葬儀に次いで2度目の出金となり、それなりの負担があったと推測されます。そこで、建碑趣意書は、死去通知総数596件(含重複)の約54%に当たる、319件の「縁故深き諸彦」に発送されました。その地域は、大阪・兵庫など関西方面、長崎など九州方面、東京などで、茂の仕事関係の所在地、縁者、恩師・学友などの居住地です。

●入金・支出状況●
 寄せられた寄付金は、個人・企業合わせて総額3,098円です。当時の物価を見ると、例えば、大正9年当時の内閣総理大臣の月給は1,000円、昭和2年当時、建坪31坪の借家住宅が3,000円以内で建築できることから、相当の金額であったことが分かります(注5)。
 その内訳は、発起人・碑文揮毫者の合計が549円、企業の合計が1,289円、個人の合計が1,260円です。会計報告では、収入金総額3,120円85銭(注6)、支出金総額2,709円73銭5厘が計上され、差引剰余金411円11銭5厘を「紀徳碑永久保存費」のために、子息貞二に贈られています。現在、四天王寺境内に「紀徳碑」が残されているのは、支出項目の「四天王寺納建碑敷地永代借地料300円」によるものでしょう。
 浄財によって建立された紀徳碑をとおして、茂に対する多くの人々の思いが感じられるとともに、4ケ月という短期間に多額の寄付金を集めた、発起人の努力と苦労が思われます。

注5)『値段の明治・大正・昭和風俗史』(朝日新聞社、1986年)。竹内緑            「T氏の住宅」(『住』1927年10号)
注6)内訳は、3,098円(寄付金総額)、9.85円(利子)、13円(除幕式供物           料)。

■その後の茂建築事務所と「門弟」・「門人衆」■
 茂建築事務所は、野村一郎が継承し、茂野村建築事務所を大阪窯業(注7)の2階に開設しますが、生前の茂と野村の関係などは不詳です。「門弟」・「門人衆」の勤務先にも変化がみられます(表2)。

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